第9話 役割
廃ビルの夜は、静かだったが、決して眠くはなかった。
オレは外周の見張りに配置されてから、三日が経っていた。
昼は機械の陰で体を休め、夜になるとビルの周囲を巡回する。フェンスの穴、崩れた壁の隙間、屋上の端。人間の気配、犬の気配、他の猫の気配。すべてを嗅ぎ分け、耳を澄ませ、目を凝らす。異常があれば、すぐに低く唸って知らせる。それが、ルールだ。
三日間、何も起こらなかった。
悪霊の気配も、遠くに微かにあるだけ。人間の街から、ぼんやりと漂ってくる負の匂い。まだ、こちらには向かっていない。
猫たちは、オレを試していた。
最初は、誰も近づいてこなかった。輪の中心にいる黒猫──名前はクロトと呼ぶらしい──が、時々片目でオレを見るだけ。若い猫たちは、遠巻きに嘲るような視線を投げてくる。老いた猫たちは、無関心を装う。馴れ合いはない。言葉も少ない。必要最低限の合図だけ。
四日目の夜、ようやく動きがあった。
クロトが、輪の中心で立ち上がった。
月明かりが、廃ビルの割れた窓から差し込み、コンクリートを青白く照らす。猫たちが、ゆっくりと集まる。二十匹近く。全員が、耳を立て、尻尾を静かに振る。オレは外周から、輪の端に近づいた。まだ、完全に輪の中には入れない。
クロトが、低く話し始めた。
「今夜、動く。街の西側。アパートの跡地に、気配が濃くなっている」
オレの全身に少し緊張が走った。
あの場所だ。人間が死んだ部屋。腐敗の匂いが残るベランダ。あの悪霊。
クロトの片目が、オレを捉える。
「お前が言った場所だな」
「ああ」
短く答える。
他の猫たちが、ちらりとオレを見る。興味と、警戒が混じった目。
クロトは、続けた。
「役割を決める」
コミュニティの構造が、そこではじめて明らかになった。
まず、見張り役。
四匹の若い猫が、前に出る。素早くて、目が鋭い。巡回し、周囲を監視する。異常を最初に察知し、知らせる。オレは今、その役割を試されている。
次に、結界役。
三匹の老いた猫と、二匹の三毛猫。特別な力を持つらしい。体を丸めて座り、目を閉じる。気配を操り、悪霊の動きを封じる。結界を張って、戦場を限定する。悪霊が逃げたり、広がったりしないように。静かな力。オレには、よくわからない。匂いが違う。古い、深い匂い。
最後に、実働──討伐役。
クロトを含む、七匹の強い猫。筋肉質で、傷だらけ。爪と牙だけでなく、特別な力を放つ。影を操る黒猫。炎のような熱を出す縞猫。毒を吐く白猫。連携して、悪霊に飛びかかり、切り裂き、焼き、祓う。群れの中心。最も危険な
役割。
役割は、固定ではない。
力に応じて、変わる。見張りが実働になることもある。結界役が老いて、見張りに回ることも。でも、基本は決まっている。みんなが、自分の役割を知っている。訓練されている。生まれたときから、あるいは群れに加わったときから。
オレは、どれにも完全に馴染めなかった。
見張りは、できている。
三日間、異常なく務めた。素早さは、オレの得意とするところ。一匹で生きてきたから、気配の変化に敏感だ。でも、群れの合図がわからない。低く唸るタイミング、尻尾の振り方、耳の角度。他の猫たちは、無言で理解し合う。オレは、少し遅れる。まだ、試されている段階だ。
結界役は、無理だ。
あの静かな力。目を閉じて、気配を操る。あれは、オレにはない。一匹で戦ってきたオレは、ただ爪を立て、牙を剥くだけ。内側から力を絞り出すような感覚が、わからない。試しに、クロトに言われて座ってみたが、何も起こらなかった。周りの猫たちが、微かに鼻を鳴らした。嘲笑か、同情か。
実働も、違う。
連携が、わからない。一匹で飛びかかり、一匹で切り裂く。それがオレの戦い方。クロトが訓練で、オレに飛びかからせてみた。オレは素早く避け、反撃した。爪がクロトの毛をかすめた。クロトは動じなかったが、周りの猫たちがざわついた。「速い」と。「だが、群れの動きじゃない」と。
オレは、輪の端に座り、みんなの訓練を見ていた。
実働役が、仮想の悪霊を想定して動く。結界役が周囲を封じ、見張りが外を監視。完璧な連携。影が飛び、熱が閃き、毒が散る。悪霊など、すぐに消えるだろう。あの気配でさえ、群れなら倒せるかもしれない。
でも、オレは、そこに馴染めない。
一匹狼の癖が、抜けない。誰かの背中を預けるのが、怖い。誰かに背中を預けるのも、嫌だ。判断は、自分でする。動きは、自分で決める。それが、オレの生き方。
訓練が終わった後、クロトがオレに近づいてきた。
「お前は、どれにも合わないな」
低い声。非難ではない。ただ、事実を述べる。
オレは、黙って頷いた。
「だが」
クロトが、片目でオレを見据えた。
「単独行動能力は、評価する。一匹で、あの気配に挑んだ。お前は、負けたが、逃げ切った。それだけでも、強い」
周りの猫たちが、耳を動かす。
若い黒猫が、初めてまっすぐオレを見た。老いた三毛猫が、ゆっくりと頷いた。
一匹狼だった過去が、欠点ではなく特性になる瞬間だった。
クロトが、続けた。
「群れの連携には、馴染めないだろう。だが、それでいい。お前は、斥候になれ。一匹で動き、気配を探り、知らせる。危険な場所に、先に入る。群れが来るまで、時間を稼ぐ。お前の速さが、生きる」
オレは、息を吐いた。
斥候。
単独行動を、許される役割。群れに属しながら、一匹で動く。縛られない。自由に、近い。
「ああ」
オレは答えた。
クロトが、輪に戻った。
猫たちが、再び静かに座る。月明かりが、廃ビルの床を照らす。
オレは、輪の端に座ったまま、夜を眺めた。
まだ、完全に受け入れられたわけではない。警戒の目は、残っている。でも、少しだけ、居場所ができた。
一匹狼の特性が、ここで活きる。
あの気配を、倒すために。
今夜、動く。
オレは、先頭を切って。
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