第10話 悪霊の匂い
夜が更けた頃、オレは先頭を切って街に戻った。
廃ビルを離れ、屋根伝いに西側のアパートへ向かう。後ろから、群れの猫たちが続く。クロトを先頭に、実働役が七匹。結界役が五匹。見張り役が四匹。総勢十六匹。足音を殺し、匂いを低く抑え、影のように移動する。月は雲に隠れ、街灯の光だけが道を照らす。人間の時間はもう深夜。誰も気づかない。
オレは斥候だ。
群れより半町先を進み、気配を探る。鼻をひくつかせ、耳を立て、風向きを読む。あの場所──人間が死んだアパート──まで、残り二町。匂いが、すでに漂い始めている。甘く腐った、あの匂い。死の匂い。悪霊の匂い。
だが、何かが違う。
オレは屋根の端で足を止め、体を低くした。
鼻を押しつけるようにして、風を嗅ぐ。匂いの層を、丁寧に剥がすように。腐敗の匂いは、確かに残っている。だが、以前ほど強くはない。人間の死体は、もう部屋にない。数日前に、誰かが発見したのだろう。無断欠勤が続き、同僚か大家が鍵を開け、異臭に気づいたはずだ。警察が来て、死体を運び出した。部屋は封鎖され、清掃業者が入ったのかもしれない。それでも、微かに、腐敗の残り香が染みついている。床や壁に。ベランダに。
でも、その上に重なる悪霊の気配が……微妙に、変わっている。
──薄い。
いや、薄いわけではない。濃さは変わらない。だが、質が違う。散らばっているような。凝縮されていないような。一箇所に固まっていない。
オレは尻尾をゆっくり振り、群れに合図を送った。
低く、短く唸る。待て。異常あり。
クロトが、すぐに追いついてきた。
他の猫たちも、屋根の上に静かに集まる。十六匹の目が、オレを捉える。
「どうだ」
クロトの声は、低い。
オレは、鼻を再び風に向けた。
「あの匂いだ。間違いない。でも……数が減っていない」
猫たちが、耳を動かした。
「減っていない?」
若い黒猫が、首を傾げる。
オレは、説明した。
あの夜、一匹で戦ったときの気配を、思い出す。部屋に満ちていた黒い霧。分裂し、絡みつき、重なり合う影の数。十か、十五か。明確な形はないが、圧の強さで、数は感じ取れた。あの圧が、オレを押し潰した。
今も、同じ圧だ。
濃さは、変わっていない。だが、中心がない。部屋からだけではない。周囲の路地、隣のビル、公園の木陰、川の土手……あちこちに、薄く散らばっているような。まるで、霧が広がったように。
「逃げたのか?」
結界役の老いた三毛猫が、目を細めて言った。
「違う」
オレは答えた。
「逃げたわけじゃない。散った。意図的に、散ったような」
クロトが、鼻を鳴らした。
「まだ終わっていない」
その一言に、みんなが頷いた。
群れは、アパートに近づいた。
オレが先導し、ベランダの下に着く。腐敗の残り香は、微かだ。部屋は空っぽになっている。ガラス戸は閉められ、カーテンが引き絞られている。人間の匂いも、薄れている。清掃の薬品の匂いが、新しく加わっている。だが、悪霊の気配は、部屋に集中していない。ベランダから、路地へ、公園へ、街全体へ、薄く広がっている。
結界役が、動き始めた。
五匹が輪になり、体を丸めて座る。目を閉じ、息を整える。空気が、微かに振動する。見えない膜が、広がるように。アパートの周囲を、結界で囲う。悪霊の逃げ道を塞ぐ。
実働役が、ベランダに飛び乗った。
クロトを先頭に、ガラス戸を押し開けて部屋へ。オレも、続いた。部屋の中は、清掃された跡がある。床が拭かれ、ベッドが剥ぎ取られている。人間の死体は、運び出された後だ。だが、壁や天井に、微かな染みが残る。悪霊の影は、薄い。一匹の黒猫が爪を立てて切り裂くが、手応えが少ない。霧が散るだけ。
「少ない」
クロトが、唸った。
外で見張っていた若い猫が、報告する。
「路地の奥に、気配が動いた」
「公園の方にも」
「川沿いにも」
悪霊は、部屋から逃げたわけではない。
最初から、完全に一箇所にいなかった。オレが一匹で戦った夜、部屋に集中していたのは、ほんの一部だったのかもしれない。人間を殺した後、ゆっくりと広がり始めていた。死体が発見され、運び出された後も、気配は残り、散らばっていった。オレの敗北が、きっかけになったわけではない。ただ、時間の問題だった。
群れは、動きを分けた。
結界役が中心に残り、実働役が見張り役と一緒に、四方に散る。オレは、単独で路地の奥へ。クロトの指示だ。「お前の鼻が、一番鋭い」と。
路地を進む。
ゴミ捨て場の陰、停まった車の影、壁の隙間。あちこちに、微かな気配。影が、ちらりと動く。爪を立てて切り裂く。霧が散る。消える。でも、すぐに別の場所で、同じ気配を感じる。数が、減っていない。
オレは、屋根に戻り、群れと合流した。
クロトが、みんなを見回した。
「完全には消せない」
静かな声。
誰も、驚かない。みんな、知っていたような目。
老いた三毛猫が、ゆっくりと口を開いた。
「悪霊は、倒すものじゃない。薄めるものだ」
その言葉が、胸に染みた。
悪霊は、人間の負の感情から生まれる。
怒り、絶望、悲しみ、憎しみ。あの人間が仕事で人を死に追いやったのか、プライベートで恨まれたのかはわからない。でも、その結果が、誰かの絶望を生んだ。誰かの自殺を生んだ。一家心中を生んだ。それらが、溜まり、凝縮し、悪霊になった。
一匹の悪霊を消しても、また生まれる。
人間の世界が、変わらない限り。負の感情が、尽きない限り。
群れの戦いは、完全な勝利ではない。
結界で囲い、実働で切り裂き、散らし、薄める。それだけ。気配を弱くし、広がりを抑え、次の悪霊が生まれるのを、少しだけ遅らせる。
オレは、ベランダに戻った。
空っぽの部屋を、ちらりと見た。あの人間は、もういない。匂いだけが、微かに残る。
「まだ終わっていない」
クロトが、オレに言った。
「ああ」
オレは頷いた。
悪霊の気配は、今夜、少し薄まった。
部屋に残っていた影は、散らされ、街全体に広がったが、圧は弱くなった。でも、完全に消えていない。明日、また集まるかもしれない。別の場所で、別の人間を狙うかもしれない。
オレは、屋根の上に座った。
群れの猫たちが、周りに散らばる。見張りを続ける。
あの匂いは、まだ漂っている。
甘く、腐った、負の匂い。
薄めるしかない。
それが、オレたちの戦いだ。
夜が、静かに続く。
人間が知らない戦いのために。
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