第8話 集まる場所

 オレは街の外れまで、夜通し歩いた。

 屋根から屋根へ、路地を抜け、川沿いの暗い道を進む。朝の光が差し始めても、休まなかった。体はまだ重く、敗北の冷たさが残っているが、足を止めるわけにはいかない。あの気配を消すためには、ここに来るしかない。

 コミュニティの場所は、噂で知っていた。

 いくつかの場所があるらしい。一つは、街の北端にある廃ビル。もう一つは、古い神社の跡地。もう一つは、再開発が止まったままの広大な空き地。猫たちは、危険の度合いや季節によって、拠点を移すという。オレはまず、一番近い廃ビルに向かった。

 廃ビルは、十年前に閉鎖された工場だった。

 鉄骨がむき出しになり、壁は崩れかけ、窓ガラスはほとんど割れている。周りは雑草が生い茂り、フェンスは倒れて穴だらけだ。人間は近づかない。夜になると、野良犬さえ寄りつかない。匂いがするからだ。猫の匂い。強い、多数の猫の匂い。

 オレはフェンスの穴から滑り込み、ビルの影に身を潜めた。

 朝の薄い光が、埃を浮かび上がらせる。足音を立てないように、ゆっくり進む。ビルの中は広い。機械の残骸が並び、天井から蔓が垂れ下がっている。空気が湿っている。カビの匂いと、猫の匂いが混じっている。

 奥に、気配を感じた。

 複数。十匹以上。二十匹近くか。静かに、息を潜めている。オレは体を低くし、機械の陰から覗いた。

そこに、猫たちがいた。

 廃ビルの中央、広いスペース。

 コンクリートの床に、猫たちが輪のように集まっている。黒猫、白猫、三毛、縞模様、様々な毛色。年齢も違う。老いた猫もいれば、若い猫もいる。みんな、傷跡を持っている。耳が欠けていたり、尻尾が短かったり、目の周りに古い傷があったり。普通の野良ではない。目が違う。鋭く、夜の闇を映すように輝いている。

 中心に、一匹の大きな黒猫が座っていた。

 毛は艶やかで、体は筋肉質。片目が白く濁っている。リーダーだろう。周りの猫たちは、その黒猫を囲むように配置されている。見張りのような位置に、数匹。若い猫が、外周を巡回している。

 オレは、ゆっくりと姿を現した。

 機械の陰から出て、輪の外側に立つ。尻尾を低く伏せ、耳を少し後ろに倒す。威嚇ではない。降伏の姿勢でもない。ただ、警戒を解かない姿勢。

すぐに、視線が集中した。

二十匹以上の目が、オレを射抜く。

空気が、ぴんと張り詰める。誰も鳴かない。誰も動かない。ただ、見ている。匂いを嗅いでいる。オレの匂い。一匹狼の匂い。群れに属さない、孤独な匂い。

黒猫が、ゆっくりと立ち上がった。

片目の視線が、オレを捉える。低く、唸るような声を出した。

「……お前か」

声は、腹の底から響く。

周りの猫たちが、耳を動かす。オレは答えた。

「ああ」

短く。それ以上は言わない。

黒猫は、ゆっくりと近づいてきた。

他の猫たちも、輪を狭めるように動く。囲む。逃げ道を塞ぐ。オレは動じない。爪は出さない。牙も剥かない。ただ、じっと見返す。

「灰縞のロンリー。街の西側を縄張りにしてる奴だな」

黒猫が言った。噂は知れ渡っているらしい。

オレは頷いた。

「今さら、何の用だ」

周りの猫から、微かな唸り声が漏れる。

若い三毛猫が、毛を逆立てた。老いた白猫が、目を細める。みんな、警戒している。オレの存在を、脅威と感じている。一匹狼は、群れのルールを乱す。いつ襲いかかるかわからない。いつ、縄張りを荒らすかわからない。

「今さら来るのか」

別の猫が、吐き捨てるように言った。黒い若い雄。傷だらけの顔。

オレは、ゆっくりと息を吐いた。

「助けが、要る」

 その言葉に、輪がざわついた。

 嘲笑のような息が、漏れる。黒猫が、鼻を鳴らした。

「一匹狼が、群れに助けを求めるのか。珍しいな」

 群れは優しくない。

 助け合いはある。戦うときは、連携する。結界を張る猫、討伐する猫、見張る猫、役割が決まっている。でも、馴れ合いはない。弱い猫は切り捨てられる。新参者は、試される。信用は、すぐに得られない。

 オレは、説明した。

 短く。あの人間の死。部屋に残る悪霊の気配。一匹で戦って、負けたこと。形のない敵。数と重さで押し潰されたこと。

 猫たちは、黙って聞いていた。

 嘲笑は消えた。代わりに、興味のようなものが、目に浮かぶ。黒猫が、再び口を開いた。

「その悪霊の気配……強いのか」

「ああ。普通じゃない」

 黒猫は、周りの猫たちを見回した。

 誰も反対しない。みんな、悪霊の存在を知っている。世界中にいる。人間の負の感情が、溜まって生まれる。殺す。取り憑く。除霊しなければ、広がる。

「今は、ここにいる」

 黒猫が言った。

「だが、受け入れるかどうかは、決まっていない。お前は一匹狼だ。群れのルールを守れるか?」

 オレは答えた。

「守る」

 嘘ではない。

 今は、守るしかない。背に腹は代えられない。

 黒猫は、ゆっくりと頷いた。

 輪が、少しだけ緩む。だが、警戒の目は、まだ外れない。

「試す」

 黒猫が言った。

「今夜、見張りに加われ。役に立てば、話は聞く」

オレは頷いた。

 廃ビルの奥で、猫たちは再び輪に戻った。

オレは、外周に置かれた。見張りの位置。一番危険で、一番信用されていない場所。

 風が、廃ビルを通り抜ける。

 埃が舞う。猫たちの匂いが、濃くなる。

 群れは優しくない。

 馴れ合いはない。

 それでいい。

オレは、夜を待った。

あの気配を、消すために。

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