第7話 背に腹は代えられない
オレは屋根の上で、夜明けまで動けなかった。
体はまだ冷たく、気配の残りが毛の根元に染みついている。爪は伸びきったまま、屋根瓦に食い込んだままだ。息は少しずつ落ち着いてきたが、心臓の鼓動だけは、いつまでも速い。敗北の味が、口の中に広がっている。苦く、ねばつく。吐き出したいのに、出ない。
これまで、オレは負けたことがなかった。
子猫の頃から、一匹だった。
母親の記憶は薄い。生まれた場所は、廃ビルの地下室。兄弟はいたが、すぐに散らばった。人間の手が伸びてきて、袋に詰め込まれるのを、オレだけが逃れた。爪を立て、牙を剥き、隙間から飛び出した。あの日から、一匹で生きることを選んだ。いや、選んだというより、そうするしかなかった。
群れは、弱い。
群れは、縛られる。
他の猫たちを見ていた。神社跡の空き地に集まる連中。十匹、二十匹と寄り集まって、縄張りを守り、餌を分け合う。強い猫が上になり、弱い猫は下になる。喧嘩が絶えず、傷だらけになる。人間に媚びて、餌をもらう猫もいる。首輪をつけられ、家に閉じ込められる。オレは、そんな姿を見たくなかった。
自由がいい。
一匹でいれば、誰も命令しない。誰も裏切らない。腹が減れば、自分で探す。ゴミ捨て場を漁り、路地裏のネズミを狩り、屋根の上を渡る。危険はいつもあった。野良犬の群れに追われたこともある。三匹に囲まれ、背中を噛まれた。血が流れたが、オレは逃げ切った。高い壁に飛び乗り、牙を剥いて睨み返した。犬たちは諦めた。
他の猫との争いもあった。
縄張りを荒らす若い雄。オレは威嚇し、爪を立て、追い払った。相手が強ければ、逃げた。逃げるのは恥ではない。生き残るためだ。一匹でいれば、判断は自分だけ。群れのように、仲間の遅さに足を引っ張られることもない。
人間にも、近づかなかった。
石を投げる子供。蹴ってくる酔っ払い。罠を仕掛ける大人。みんな、信用できない。匂いが悪い。怒りの匂い、酒の匂い、恐怖の匂い。でも、あの人間だけは違った。名前も知らない。どんな仕事をしているのかも知らない。ただ、ベランダで静かに皿を置く。無言で、街を見下ろす。見返りを求めない。触ろうともしない。あの関係は、軽かった。でも、居心地が良かった。
あの人間が、死んだ。
悪霊に、殺された。
オレは一匹で戦った。
爪を立て、牙を剥き、飛びかかった。だが、形がない敵に、手応えはなかった。数と重さで、押し潰された。冷たい影に絡め取られ、力を吸い取られた。逃げるしかなかった。屋根の上まで逃げて、震えながら朝を待った。
今回は、無理だった。
相手が悪過ぎる。
一匹では、勝てない。
あの気配は、強すぎる。分裂し、合体し、絡みつく。オレの素早さも、爪の鋭さも、通じなかった。人間を殺したものを、倒すには、もっと力が必要だ。もっと、数が必要だ。
オレは、思い出した。
猫コミュニティの存在を。
昔、聞いたことがある。
この街の外れ、廃墟になったビルの地下。あるいは、古い神社の裏の森。あるいは、再開発で取り残された空き地。そこに、集まる猫たちがいるという。普通の野良ではない。特別な力を持つ猫たち。悪霊を見つけ、戦い、除霊する。群れで動く。役割を分担し、結界を張り、連携して討伐する。オレは、そんな話を、路地で耳にしたことがある。嘲笑っていた。あんな群れに、加わるものか。縛られるものか。
でも、今は違う。
背に腹は代えられない。
あの人間のためだ。食べ物をくれた、無言の人間のため。見返りを求めなかった、唯一の優しさのため。あの気配を、消さなければ。オレの敗北を、晴らさなければ。
オレはゆっくりと体を起こした。
朝の光が、街を照らし始めている。体はまだ重いが、動ける。爪を立て、屋根から飛び降りる。路地を抜け、街の外れへ向かう。
コミュニティを探す。
今さら、受け入れられるかどうかはわからない。一匹狼として知られているオレを、警戒するだろう。でも、行かなければ。
一匹では、足りない。
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