第6話 敗北

 雨が止んだ夜、オレは再びアパートに戻ってきた。

 ベランダの下、植え込みの陰に身を潜め、息を潜める。体はまだ震えていた。あの部屋から逃げ出してから、数時間が経った。路地を走り、屋根の上を飛び移り、遠くの公園の木陰で体を休めた。でも、気配は消えない。背中にまとわりつくように、追ってくる。人間の死体に絡みついていたあの気配。悪霊の残り香。

 オレは一匹で生きてきた。

 群れず、媚びず、戦うときはいつも勝ってきた。野良犬の群れに囲まれても、爪と牙で切り抜けた。縄張りを争う他の猫たちを、威嚇と素早さで追い払った。人間の罠にもかからなかった。オレは強い。少なくとも、そう思っていた。

 でも、あの気配は違う。

 形がない。匂いもない。ただ、存在する。重く、冷たく、ねばつく。人間を殺したものだ。オレの直感が、そう告げている。あの人間──食べ物をくれた、無言の人間を、奪ったものだ。

 許せない。

 オレは尻尾を低く伏せ、耳を立てた。夜の空気が、静かすぎる。街灯の光が、アパートの壁をぼんやり照らしている。二階の角部屋。ガラス戸の隙間から、腐敗の匂いがまだ漏れ出している。甘く、重い匂い。死の匂い。

 決めた。

 戦う。

 あの気配を、倒す。

 オレは植え込みから飛び出し、壁に爪を立てて登った。雨の残りで滑るが、構わない。体を伸ばし、手すりに前足をかける。ベランダに着地。ガラス戸の隙間は、まだ開いたまま。鼻で押し広げ、部屋に滑り込む。

 部屋の中は、さっきと同じ。

 暗く、重い空気。人間の死体がベッドに横たわっている。肌はさらに青白く、頰が落ちくぼんでいる。目は閉じたまま。口から、何か黒いものが零れ落ちそうな気配。腐敗の匂いが、部屋を満たす。吐き気がする。

 そして、気配。

 さっきより強い。部屋の隅から、天井から、床の下から、染み出してくる。影のような霧のような。形がない。明確な輪郭がない。ただ、黒い塊が、渦巻くように動いている。数がある。ひとつではない。いくつも。重なり、絡みつき、広がる。

 オレは毛を逆立てた。

 背中がぞわぞわする。爪を立て、牙を剥く。戦闘態勢。体を低く構え、瞳を細める。気配が、オレを認識した。部屋の空気が、どんどん冷たくなる。息が白く見えそうなほど。

 来い。

 オレは飛びかかった。

 前足を伸ばし、爪で切り裂く。標的は、ベッドの上の気配。人間の死体にまとわりつく黒い霧。爪が空を切る。手応えがない。ただ、冷たい風が通り抜けるだけ。でも、気配は反応した。反撃が来る。影が伸び、オレの体を押さえつけるように重くなる。

 重い。

 数と重さで、押し潰される。

 オレは体を捻って逃れようとした。素早さがオレの武器だ。部屋の隅に飛び、壁に爪を立てて跳ね返る。牙を剥いて、再び突進。気配の中心──死体の胸元に牙を立てる。だが、噛みつく先がない。霧が散らばり、再び集まる。形がない敵。触れられないのに、触れてくる。

 今度は、複数の影が襲ってきた。

 部屋の隅から、三つか四つ。黒い触手のようなものが、オレの体を絡め取る。冷たい。骨まで凍るような冷たさ。体が重くなる。動きが鈍る。オレは爪で引っ掻き、牙で噛みつこうとするが、すべて空振り。気配は笑っているようだ。形がないのに、嘲笑の響きが聞こえる。低く、くぐもった音。人間の苦しみの残響か。

 オレの息が荒くなる。

 心臓が激しく鳴る。体に傷はない。でも、疲労が一気に来る。気配が、オレの力を吸い取るように。重さが倍になる。床に押しつけられる。逃げようと体を捻るが、影が絡みつく。数が多い。ひとつ倒せば、ふたつ生まれる。霧が分裂し、再び合体する。明確な形を持たない敵。倒し方がわからない。

 痛み。

 初めての痛み。体の中から、裂かれるような。気配が、オレの精神に食い込んでくる。視界がぼやける。部屋が歪む。人間の死体が、ぼんやりと揺れる。目が開きそうな。唇が動きそうな。「助けて」と囁くような。

 いや、幻だ。

 オレは頭を振った。力を振り絞って、影を振り払う。爪で床を引っ掻き、跳ね起きる。ガラス戸に向かう。逃げる。逃げるしかなかった自分。

 ベランダへ。

 雨の残りで滑る手すりを飛び越し、下へ落ちる。植え込みに転がり、泥にまみれる。走る。路地を抜け、屋根の上へ。気配は追ってこない。部屋に留まっている。でも、オレの体に、残り香が染みついている。冷たさが、消えない。

 オレは屋根の上で、体を丸めた。

 息が切れる。体が震える。傷はない。でも、負けた。初めての敗北。オレの人生で、初めての“敗北”。

 短い回想が、頭をよぎる。

 皿の音。

 あの冬の夜。雪がちらつくベランダ。人間が、静かに皿を置く。音が小さく響く。無言の人間。名前も知らない。ただ、食べ物をくれる。たこ焼きか、おにぎりか。温かさが、冷たい夜に染みる。人間はベランダに寄りかかり、街を見下ろす。オレは陰から見る。安全な匂い。安定した気配。

 あの人間が、死んだ。

 あの気配に、殺された。

 オレは目を閉じた。

 敗北の味は、苦い。体が重い。初めて、限界を知った。一匹では、勝てない。群れず生きてきたが、今回は違う。

 夜が深くなる。

 オレは屋根の上で、動けなかった。

 気配の冷たさが、まだ体に残っている。

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