第5話 ベランダの向こう
五日目だったか、六日目だったか。
オレはもう、数えるのをやめていた。毎日同じ時間にアパートの前に来て、ベランダの下に座り、見上げる。人間の足音は聞こえない。鍵の音もない。明かりはつかない。ただ、匂いが日に日に強くなっていく。あの甘く腐った匂い。最初は微かだったものが、今は風が吹かなくても、鼻を突くように濃い。
今日は雨が降っていた。
細かい霧のような雨が、毛に染み込んでくる。オレは植え込みの陰で体を丸めていたが、耐えられなくなった。匂いが強すぎる。好奇心ではない。不安だ。人間はどこに行った? なぜ、この匂いがする? オレは尻尾を低く伏せ、耳を後ろに倒した。危険の予感が、体中を走る。
ベランダを見上げる。
二階の高さ。いつもなら、人間がガラス戸を開けて出てくる場所だ。でも、今は閉まったまま。カーテンの隙間から、部屋の中は暗い影しか見えない。オレは周りを見回した。他の住人はいない。階段の音もない。夜は深く、街灯の光が雨に滲んでいる。
決めた。
入ってみる。
あの部屋に。
オレは植え込みから飛び出し、アパートの壁に爪を立てた。壁は古く、コンクリートが少し剥がれている。足場になる出っ張りがある。雨で滑りやすいが、オレの爪は鋭い。一段、二段。体を伸ばして、ベランダの手すりに前足をかける。尻尾を振ってバランスを取り、後ろ足で押し上げる。体が軽く、手すりの上に着地した。
ベランダは狭い。
室外機の陰に、いつものオレの場所がある。ガラス戸の前には、植木鉢が一つ。枯れた花が、雨に打たれて倒れている。オレはガラス戸に鼻を近づけた。匂いが、隙間から漏れ出している。甘く、重く、腐った匂い。吐き気がするほどだ。人間の匂いが、まだ混じっている。でも、弱い。覆い被さるように、あの腐敗の匂いが強い。
ガラス戸は少し開いていた。
人間が最後に閉め忘れたのか、風でずれたのか。隙間は狭いが、オレの体なら通れる。鼻で押し、爪で引っかいて広げる。きしむ音がする。雨の音にかき消される。体を低くして、隙間から滑り込む。
部屋の中は暗い。
明かりがない。外の街灯の光が、カーテンの隙間から薄く差し込んでいるだけだ。オレの目は夜に強い。すぐに、部屋の輪郭が見えてくる。六畳ほどの広さ。ベッドが壁際にあり、小さなテーブルと椅子。テレビが置かれている。床は散らかってない。いつも通り、整然としている。でも、空気が重い。息が詰まるような重さだ。
匂いが、部屋いっぱいに満ちている。
甘く腐った匂い。肉の腐る匂い。血の匂いではない。もっと、ゆっくりと腐敗したもの。オレは鼻をひくつかせて、匂いの源を探った。ベッドの方だ。部屋の奥、ベッドの横。
足音を立てないように、ゆっくり進む。
床の絨毯が爪に柔らかい。人間の匂いが、床のいたるところに染みついている。紙の匂い、汗の匂い、コンビニの食べ物の匂い。でも、それらを押し潰すように、腐敗の匂いが覆っている。
ベッドの端に近づく。
何か、横たわっている。
人間だ。
オレは体を低くした。尻尾がぴくりと止まる。耳が立ち、瞳が広がる。
人間はベッドの上に、仰向けに横たわっていた。
目は閉じている。口は少し開き、頰が落ちくぼんでいる。腕は体に沿って伸び、足は揃っている。まるで、ただ眠っているように見える。でも、違う。肌の色が白く、青みがかった。唇が乾き、ひび割れている。シャツの胸元に、シミのようなものが広がっている。汗か、何か別のものか。
匂いが、ここから来ている。
人間の体から。腐敗の匂い。甘く、重く、部屋を満たす。オレは近づき、鼻を近づけた。体温がない。冷たい。死んでいる。人間は死んでいる。
オレの心臓が、速く鳴る。
なぜ? どうして? 人間はいつも通りだった。あの最後の夜、ベランダで街を見下ろしていた。食べ物をくれた。静かに部屋に戻った。それなのに、今はここに、動かずに横たわっている。
死体の周りの空気が、重い。
ただの死ではない。何か、違う。オレは毛を逆立てた。背中がぞわぞわする。部屋の空気が、ねばつくように感じる。視線を感じる。誰かに見られているような。
気配だ。
濃く、残る気配。
人間の死体の周りに、絡みつくように。影のようなもの。形がない。でも、存在する。オレの目はそれを見えないが、感じる。悪意の塊。冷たく、粘つく気配。部屋の隅から、ベッドの下から、天井から、染み出してくる。
悪霊だ。
オレは直感した。
この嫌な気配、恐らくあの人間を殺したものだ。
体が震える。
尻尾が低く伏せ、爪が床に食い込む。気配は生きている。人間の死体にまとわりつき、オレを睨んでいる。形がないのに、目があるように感じる。息づかいがないのに、息を潜めているように。部屋の空気が、どんどん重くなる。雨の音が遠く、街灯の光が揺れる。
オレは後ずさった。
ベッドから離れる。気配が追ってくる。影が伸びるように。人間の死体の目が、開きそうな気がする。唇が動きそうな。指が、かすかに震えそうな。
違う。ただの死体だ。
でも、気配は本物。悪霊の残り香。人間を殺したもの。なぜ? 人間は何も悪いことをしていなかった。ただ、食べ物をくれた。静かに街を見下ろしていた。それなのに。
気配が、強くなる。
部屋の隅で、黒い霧のようなものが渦巻く。見えないのに、見える。オレの感覚が、鋭く反応する。戦うか、逃げるか。体が硬直する。
オレはガラス戸に向かった。
隙間から外へ。ベランダへ。雨が顔にかかる。冷たい。体を震わせて、手すりに飛び乗る。下へ飛び降りる。植え込みに着地。走る。夜の路地へ。
でも、気配はまだ感じる。
背中に、まとわりつくように。
人間は死んだ。
あの気配に、殺された。
オレは暗闇の中で、息を潜めた。
雨が、すべてを洗い流すように降り続ける。
でも、匂いは消えない。気配も消えない。
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