第4話 戻らない時間

 オレはいつもの時間に、アパートの前に来た。

 夕暮れが深まり、街灯がぽつぽつと灯り始める頃だ。空は灰色に沈み、風が少し冷たくなっている。ベランダの下、植え込みの陰に身を潜めて待つ。人間の足音が聞こえるのを、耳を立てて探す。

 階段を上る音。

 鍵が回る音。

 ドアが閉まる音。

 いつもなら、それらが順番に聞こえてくる。この人間は大体七時半頃に帰ってくる。早い日は七時前、遅い日は八時を過ぎることもある。でも、必ず帰ってくる。匂いが変わる。部屋の明かりがつく。少しして、ベランダのガラス戸が開く音がする。

 今日は違う。

 七時半を過ぎ、八時になっても、何も聞こえない。

 オレは植え込みから出て、アパートの入り口を見上げた。二階の角部屋。カーテンは閉まったままだ。明かりはない。人間の匂いは、昨日と同じ強さで残っているが、新しい気配がない。

 少し待ってみた。

 尻尾をゆっくり振りながら、ベランダの下をうろうろする。他の住人が階段を上り下りする音はする。別の部屋から、テレビの声や子供の泣き声が漏れてくる。でも、二階の角部屋だけは静かだ。

 あの人間は、今日は遅いのかもしれない。

 オレはそう思って、一度その場を離れた。近くの路地で、ゴミ袋から落ちた魚の骨を少し舐めた。味は悪くない。でも、腹はあまり減っていない。人間がくれる食べ物の方が、いつも新鮮だった。

 夜が更けて、月が出た頃、再びアパートに戻ってきた。

 まだ明かりはない。

 オレはベランダの下に座り、じっと見上げた。風が植え込みの葉を揺らす。遠くで犬が吠える。人間は帰ってこない。

 翌日も、オレは来た。

 同じ時間。同じ場所。

 階段を上る足音は、他の住人のものだけだ。二階の角部屋は、昨日と同じように暗い。カーテンの隙間から、部屋の中は見えない。でも、匂いが少し変わっていることに気づいた。

 甘い匂いだ。

 最初は微かだった。人間の匂い、紙と汗とコンビニの食べ物の匂いに混じって、ほんの少しだけ甘いものが漂っている。腐った果物のような、蜜のような。でも、どこか不自然だ。

オレは鼻をひくつかせて、匂いを追った。

ベランダの下から、わずかに上へ昇ってくる。部屋の中からだ。

 人間は、まだ帰ってこない。


 三日目。

 オレは朝から来ていた。

 昼間の陽射しが強い時間に、ベランダの下で寝ていた。目を覚ますと、いつもの時間になった。空はまた灰色だ。秋の空気は冷たく、毛に染みてくる。

 今日も、足音はない。

 甘い匂いが、昨日より強くなっている。

 腐った匂いだ。

 肉が腐る匂い。魚が腐る匂い。オレはそれをよく知っている。路地裏のゴミ捨て場で、腐った食べ物に群がるハエの匂いと同じだ。でも、これは違う。もっと重い。もっと濃い。

 匂いはベランダから降りてくる。

 部屋の中から、確実に。

 オレは不安になった。

 尻尾がぴくりと動く。耳が後ろに倒れる。人間はどこに行った? なぜ帰ってこない? なぜ、こんな匂いがする?


 四日目。

 匂いはもう、はっきりしている。

 甘く、腐った、重い匂い。

 風が吹くたびに、ベランダから下に流れてくる。オレは植え込みの陰に隠れながら、鼻を押しつけるようにして嗅いだ。匂いの中心は、部屋の中だ。人間の匂いが、まだ残っている。でも、その上に、別のものが覆い被さっている。

 腐敗の匂い。

 オレは理解し始めていた。

 人間は、帰ってこない。

 もう、帰ってこないのかもしれない。

 でも、オレは来続ける。

 同じ場所に。同じ時間に。

 ベランダの下に座り、見上げる。

 明かりはつかない。ガラス戸は開かない。皿は出てこない。

 ただ、匂いだけが、日に日に強くなっていく。

 甘く、腐った匂い。

 オレは尻尾を巻きつけ、体を丸めた。

 風が冷たい。夜が深い。

 人間よ。

 どこに行った?

 オレは静かに、ベランダを見上げ続けた。

 答えはない。

 ただ、匂いだけが、濃くなっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る