第3話 小さな来訪者
佐藤がその猫に気づいたのは、梅雨の終わりの頃だった。
その夜は蒸し暑く、銀行から帰ってからもシャワーを浴びた後の体がすぐに汗ばんだ。夕食はコンビニのたこ焼きと缶ビール。たこ焼きを半分ほど食べて、残りを小皿に残したままベランダに出た。手すりに肘をつき、ぼんやりと下の通りを見下ろす。車は少ない。向かいのマンションの窓に、青白いテレビの光が揺れている。
ふと、足元に小さな気配を感じた。
ベランダの隅、室外機の陰に、一匹の猫が座っていた。
灰色の縞模様の、成猫だ。痩せているわけではないが、野良らしい野性味が残っている。耳は少し欠けていて、尻尾はゆっくりと左右に揺れていた。佐藤を見上げているが、威嚇する様子はない。ただ、じっと見ている。
佐藤は最初、気にも留めなかった。
このアパートには時々野良猫が現れる。餌をやる住人もいるらしい。自分はこれまで一度も関わったことがない。動物は好きでも嫌いでもない。ただ、面倒だと思っていた。
でも、その夜は少し違った。
缶ビールを飲み干し、部屋に戻ろうとしたとき、残りのたこ焼きが目に入った。六個入りを買って、四個しか食べていない。冷めきったたこ焼きを捨てるのももったいない気がした。佐藤は小皿を持ってベランダに戻り、猫の前にそっと置いた。
猫は動かなかった。
ただ、鼻をひくつかせて匂いを嗅いだ。佐藤はそれを見て、部屋に戻った。ガラス戸を閉め、カーテンを引く。もう猫のことなど忘れていた。
翌朝、皿は空だった。
きれいに舐め取られたように、ソースの跡だけが残っていた。佐藤は皿を洗い、ゴミに出すときに少しだけ思った。──また来るかもしれない。
それから、猫は時々現れるようになった。
最初は週に一度か二度。
佐藤がベランダに出ると、すでに室外機の陰に座っている。雨の日もあった。毛が濡れて、いつもより小さく見えた。佐藤は特に理由もなく、残り物の食べ物をやるようになった。コンビニのおにぎりの残り半分、から揚げ一本、焼きそばの端っこ。たこ焼きをもう一度買ったこともあった。
猫は決して近づいてこなかった。
皿を置くと、少し離れた場所から見ている。佐藤が部屋に戻って十分ほど経つと、ようやく近づいて食べる。音を立てない。食べ終わると、また静かに去っていく。鳴きもしない。名前もつけない。佐藤はただ「猫」とだけ思っていた。
夏が深まり、蝉の声がうるさくなった頃には、猫が来る頻度は週に三、四度になっていた。
佐藤はそれに慣れた。帰宅して、冷蔵庫に何か残り物があれば、皿に出す。それだけのことだ。特別な感情はない。ただ、ベランダに出て街を見下ろすときに、猫がいるかいないかを、ちらりと確認するようになった。
ある夜、佐藤は珍しく早く帰ってきた。
残業がなく、五時半に銀行を出た。コンビニで鮭弁当を買って帰る。半分食べて、残りを皿に出す。ベランダに置くと、猫はもう来ていた。いつもより少し早い時間だ。
猫は皿を前にして、佐藤を見上げた。
黄緑色の目が、街灯の光を反射している。佐藤は手すりに寄りかかったまま、しばらくその目を見返した。猫は耳を少し動かしただけで、動かない。
佐藤は小さく息を吐いて、部屋に戻った。
ガラス戸越しに、猫が食べ始めるのを横目で見た。静かに、丁寧に。
──ここから先は、猫の視点だ。
人間は、今日も帰ってきた。
いつもの時間より少し早い。足音が階段を上り、鍵が回る音がする。ドアが閉まる。部屋の明かりがつく。匂いが変わる。コンビニの袋の匂い、魚の匂い。
オレは室外機の陰に座って、待っていた。
この人間は、安全だ。
最初に来たとき、匂いがわかった。煙草は吸わない。酒は少しだけ。怒りの匂いがしない。暴力の匂いもない。部屋の中はいつも静かで、大きな音を立てない。テレビの音も小さい。時々、ため息のような息を吐くが、それだけだ。
他の人間は違う。
大声を出す。物を投げる。酒臭い息を吐いて、蹴ってくる。子供が石を投げつけることもある。このアパートの別の部屋からも、怒鳴り声が聞こえることがある。でも、この人間の部屋からは、そんな匂いがしない。
だから、オレはここに来るようになった。
最初は、たこ焼きの匂いに釣られただけだ。
あの夜、ベランダに置かれた皿。人間はすぐに部屋に戻った。待って、十分ほど経ってから近づいた。熱はもうなかったが、柔らかくて、ソースの味が濃かった。あれ以来、時々来るようになった。
人間はオレに名前をつけない。
呼んだりしない。触ろうともしない。ただ、食べ物を置いて、去る。それでいい。オレは触られるのが嫌いだ。耳を撫でられるのも、抱き上げられるのも、すべて嫌いだ。自由がいい。一匹でいるのがいい。
でも、この人間は、うるさくない。
皿を置くときも、静かに置く。オレを見ても、大きな声を出さない。ただ、じっと見ているだけだ。目が冷たいわけではない。疲れているような目だが、悪意がない。匂いが安定している。毎日、同じ匂いだ。紙の匂いと、少しの汗と、コンビニの食べ物の匂い。それが混じって、この人間だけの匂いになっている。
今日の食べ物は、魚だ。
鮭の匂いが強い。ご飯も少し。オレは人間が部屋に戻るのを待って、皿に近づく。舌で舐めてみる。冷めているが、悪くない。ゆっくり食べる。音を立てないように。
食べ終わると、ベランダの手すりに飛び乗る。
下の通りを見下ろす。車が通る。別の猫の気配はない。この場所は、オレの場所になった。
人間はまたベランダに出てきた。
ガラス戸を開けて、手すりに寄りかかる。オレを見下ろしている。でも、何も言わない。ただ、ぼんやりと街を見ている。
オレは尻尾をゆっくり振って、人間を見上げる。
関係は軽い。
毎日来るわけではない。人間も、毎日餌をくれるわけではない。でも、居心地がいい。風が通る。匂いが安定している。何より危険がない。
オレはここに、少しだけいてもいいと思った。
人間が部屋に戻る。
明かりが消える。オレはベランダから飛び降りて、夜の街へ消えた。
また、来るだろう。
この人間が帰ってくる時間に。
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