第3話 目的地不明の侵入者

 点検口からリラを引きずり出すのに、想定より二分かかった。


「いたたた……もうちょっと優しくしてよ」


「肋骨に過度な圧をかけないよう配慮しました。平均的には優しい部類です」


「平均ってなに……」


 床に降ろされたリラは、しばらくその場に座り込んだまま、天井を睨んでいた。


「……細すぎでしょ、あのダクト」


「建築基準上、標準です」


「夢がないなあ」


 誠志郎は脚立を畳み、手を洗う。侵入者に触れた後でも、動作に乱れはない。


「で」


 振り返って、静かに言った。


「何を盗む予定だったんですか」


 リラは一瞬だけ言葉に詰まり、それから当然のように答えた。


「データ」


「どの」


「えっと……ほら、企業の裏金とか、不正取引とか」


「抽象的ですね」


「そういうのは大体ここにあるって聞いたの!」


 誠志郎は一拍置いた。


「誰に」


「仲介の人」


「……なるほど」


 彼はタブレットを操作し、壁面モニターに建物の情報を映す。


「まず、ここは企業ビルではありません」


「え」


「個人宅です」


「え?」


「正確には、私の自宅兼研究ラボです」


 リラの瞬きが止まった。


「……え?」


 三度目の「え」は、かなり間抜けだった。


「法人登記上の所在地は別です。ここには、裏金も、不正取引のデータもありません」


「……」


「あるのは、高校の教科書と、未提出のレポートと——」


「待って待って待って」


 リラは勢いよく立ち上がり、部屋を見回した。

 整然とした室内。生活感は薄いが、確かに“暮らしている”痕跡がある。


「……ここ、会社じゃないの?」


「違います」


「研究施設でも?」


「私的利用です」


「……じゃあ」


 彼女はゆっくりと誠志郎を見た。


「私、何しに来たの?」


「不法侵入です」


「冷たい!」


 リラは頭を抱え、そのままソファに倒れ込んだ。


「うそでしょ……下調べ完璧だったはずなのに……」


「建物名を、読み違えています」


「え」


「一文字違います。想定するに、あなたが狙っていたのは、三ブロック先の別会社ではないでしょうか?」


 沈黙。


「……」


「……」


「…………」


「帰りますか」


「帰れない……」


 リラは天井を見つめたまま、ぼそっと言った。


「こんな失敗、初めて……」


 誠志郎は、ほんの少しだけ考えた。


「今夜は」


「うん?」


「もう侵入はしない方がいいです」


「……追い出さないの?」


「警察を呼ぶ合理性が低いので」


「……変な人」


「よく言われます」


 しばらくして、リラは体を起こし、小さく笑った。


「ねえ、誠志郎」


「はい」


「私さ」


「はい」


「とんでもなく間違った家に、忍び込んだみたい」


「同意します」


 そう言って、誠志郎はキッチンへ向かった。


「コーヒー、飲みますか」


「……甘いやつ」


「了解しました」


 その夜、盗みは成立しなかった。

 代わりに、奇妙な関係だけが、静かに成立した。

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