第4話 帰らなかった侵入者

 コーヒーは、思っていたよりも甘かった。

 正確には、甘さを選ばせてもらえた、という事実そのものが、リラにとってすでに予想外で、盗みに失敗した直後の人間が他人の家で砂糖の量を指定しているという状況の異常さを、今さら指摘する気力すら削いでいた。


「砂糖、どれくらいにしますか」


 淡々とした声でそう聞かれ、リラは一瞬だけ考え込んだ末、まるでそれが当然の選択肢であるかのように「ちょっと多めで」と答えてしまい、その自分の反応に内心で苦笑する。


 誠志郎は何も言わずに頷き、計量スプーンで正確に砂糖をすくうその所作は、妙に落ち着いていて、盗みに失敗した夜のはずなのに、なぜか生活の一場面を覗き見ているような錯覚を覚えさせた。


「ねえ」


「なんですか」


「高校生って、こんな時間まで起きてていいの」


「試験前なので」


「……真面目すぎでしょ」


 差し出されたマグカップは、手のひらにじんわりと熱を伝えてきて、その温度がそのまま安心感に変換されるようで、リラは一口飲んでから、思わず小さく息を吐いた。


 甘い。

 そして、不思議なほど落ち着く。


「……ここ、居心地いいね」


「そうですか」


 侵入者に向ける言葉としては、あまりにも無防備な返答だったが、誠志郎はそれ以上何も言わず、タブレットに視線を落として作業を続けていて、その横顔がこの空間にあまりにも自然に溶け込んでいるせいで、リラは逆に自分の方が“余所者”であることを忘れかけてしまう。


「私さ」


「はい」


「いつ帰ればいい?」


 問いかけた声には、冗談めいた響きを乗せたつもりだったが、返ってきたのは想像よりもずっと真面目な答えだった。


「明確な期限は、設定していません」


「……それ、追い出さないって意味?」


「現時点では」


 思わず笑ってしまったのは、たぶん緊張が抜けたせいだ。


「ほんと変な人」


「否定しません」


 それからしばらく、会話は途切れ、エアコンの低い運転音と壁時計の秒針だけが部屋に満ちていく中で、リラはソファに浅く腰掛けたまま、背もたれに身体を預け、足先で床を軽く叩きながら、帰るとも居座るとも決めきれない曖昧な姿勢を取り続けていた。


 靴はまだ履いたままだった。

 商売道具も膝の上にある。

 けれど、立ち上がろうという意思だけが、どこかに消えていた。


「あ」


 誠志郎がふと顔を上げる。


「夕食、食べました?」


「……そういえば」


「簡単なものでよければ」


「食べる」


 即答だった。


 キッチンに向かう彼の背中を見送りながら、リラはようやく靴を脱ぎ、揃えるでもなく床に置いたその動作が、まるで“もうしばらくここにいる”と自分に言い聞かせるための儀式のように感じられて、少しだけ気恥ずかしくなる。


 運ばれてきたのは、野菜が多めに入った軽いパスタで、味付けは控えめなのにきちんと美味しくて、リラは無言のまま食べ進め、気づけば皿は空になっていた。


「……ねえ」


「はい」


「ほんとに高校生?」


「戸籍上は」


 その返答があまりにも冷静で、リラはもう一度だけ笑った。


 食後、再びソファに身を沈めると、今度は身体の力が抜けるのがはっきりとわかり、背中を預けたまま目を閉じ、ほんの一瞬だけそのつもりでいたはずなのに、次に意識がはっきりしたときには、もう瞼を開けるのが億劫になっていた。


「……眠い」


「客用の毛布がありますが」


「……ここでいい」


 そう言ったきり、リラは横になり、身体を丸めるようにしてソファに収まると、完全に寝る準備をしたわけでもないのに、意識だけが先に落ちていった。


 誠志郎は一瞬だけ動きを止め、それから静かに毛布を手に取り、彼女の肩口にそっと掛けるとき、胸元にかからないよう無意識に位置を調整している自分に気づき、しかし理由を深く考えることはしなかった。


「おやすみなさい」


 返事はなく、規則正しい寝息だけが、部屋に静かに広がっていく。


 その夜は、何も起きなかった。

 盗みも、警報も、逃走も。


 ただ、侵入者が一人、帰らなかっただけで、

 そして誠志郎は、その事実をもう「想定外」とは呼ばなくなっていた。

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