カード

真花

カード

 ドアを閉めればひとり切り。絨毯がいいせいなのか遠ざかる君の足音だって聞こえない。それでもこうやってドアに張り付いて、君が映りもしない覗き穴を凝視して、息を殺すのは、私と君を繋ぐ糸が引き伸ばされて見えなくなるまでは今日が終わらないと言うことにしているからだ。十秒やそこらの長さでも一緒を長くしたい。それで君がエレベーターに乗り込むのを想像して、下降するイメージとともにドアを離れる。毎週そうする。毎週、一週間待たなくちゃいけない。

 君がいないホテルの部屋は急に広くて、さっき君が座っていたソファに君がしていたように座ってみる。飲みかけのお茶。二つの銘柄が並ぶ灰皿。君がカバンを置いていたところは余白のように空っぽで、一緒に見ることのほとんどないテレビをつける。それは家にいるときと同じ、ただ埋めるためのノイズなのに、私は甘えて考えることを半分捨てる。

 水曜日を待って仕事と生活をして、ここで君と会って、また水曜日を待つ。それだけが私。君がよくするように口許だけで嗤ってみる。そうね。全部がここだけの話。友達にも職場にも、もちろん家族にも誰にも秘密の二人だから、記録に残るものは何も、写真でさえ、ないし、七年間で積み重ねたものは心と体の記憶だけだし、たぶん永遠にこのまま。君は毎日連絡をくれるし、こんなに歪な形だけど私のことを大切にしてくれているって分かるから、これ以上のわがままは言えない。

 でも、君が帰った後に一人で過ごすこの部屋と時間のことを君は考えたことがないと思う。あるべきものがないんだ。何度も息をする度に痛むように突き付けられる。さっきまでいたから、だから、私はひとり。ベッドに転がる。君のぬくもりの残りを嗅ぎ取ろうとして冷ややかな落ち着き払ったみたいなシーツの匂いしかしなくて、私はやっと諦めてスマホを手に取る。今調べなくてはいけないことも知らなければならないこともないけど、無意味を探索するようにスクロールする。これだって甘えだ。テレビで半分になった思考の残った分が廃棄される。私は脳のない手と目だけの生き物になって、時間を放流する。君以外のどれだけのことを明日になっても覚えているだろうか。

 君から家に着いたメールが来た。私はシャワーを浴びる。本当は君の匂いと汗を体に染み込ませたまま過ごしたい。だけどそんな匂いで職場にはいけない。しょうがない。君が帰るのもしょうがない。それは小さな嘘だ。七年つき続ければちょっとした岩になっている。よく育ったものだ。大きくなり過ぎてもう口からは吐けない。排水溝から流れる君の残り香に「じゃあね」と呟く。いつか私もここから流れて消えてしまうのかな。

 髪を乾かして、入念に寝る前の準備をしてベッドに入る。帰ったメール以降にメールが来ることはない。明日のどこかで連絡がきっと来るから、それまで生きよう。電気を消しても体の感覚とか匂いとかわずかな光の具合でここが自宅じゃないことが分かる。だからと言って眠りが悪くなることもない。毎週のことだからもう慣れた。このホテルは私の別荘みたいなものだ。君を受け入れるための巣だ。


 だけど、次の日、君はメールも電話も私にしなかった。私はゴムを引き延ばすみたいに待った。待って待って、一日が終わってしまった。仕事中は気が紛れたけど、家に帰ってからが長かった。床に着いてから、「無事?」とだけ送った。私からのメールは避けるべきだと分かっている。だけど、何もなく君が連絡をしないなんてあり得ないから、出さずにはいられなかった。でも、返事はなかった。まあ、ときにはそんなこともあるよ、って言い聞かせて寝た。

 その次の日も連絡がなかった。スマホが壊れたとかなら別の手段で、例えばパソコンのメールとか公衆電話からかけるとか、連絡をくれるはずだ。奥さんにバレたとかならむしろ連絡するだろうし、君は、考えたくないけど、連絡が取れない状況になっている。もしくは状態。逮捕されたとか、急病で意識がないとか、……死んだとか。職場でパソコンを操作していた。集中力が途切れて君のことを考えた。至った答えに息を呑んだ。心臓が急にうるさく、どこかの田舎の祭りみたいにドカドカ音を立てる。手が震えていた。じっとりと汗が滲む。隣から同僚の声がする。

「大丈夫? 顔色最悪だよ?」

「ちょっとしんどい」

「少し休んで来なよ」

「そうする」

 横になれる場所がある訳でもないから、喫煙所に行く。屋上にあって、風に舞う煙の行き先が気になるけど、気にしても煙を出すことをやめない。スマホを見る。何も連絡がない。どうしよう。画面を凝視する。体の感じは変わらない。息が出来なくなる前に――

 私は君の電話を鳴らす。つもりが、鳴らない。電波がないか電源がないかと述べられるばかり。やっぱり何かあったんだ。君と私は口約束だけの関係だ。君の家の正確な場所は知らないし、他の連絡手段もない。君がたとえ死んでも私にその報告が来ることはない。分かっている。しょうがない。ああ、死神みたいなしょうがないだ。

 もう一度電話をかける。当然のように弾かれる。もし留守電になったとしてもそこに私の声を入れることは出来ない。だからそうならないだけマシなのか? 今、君は逮捕か急病か死亡かをしている。でも逮捕されることはないだろうし、急病なら連絡はするはずだ。……死んだ? 君は死んだのか。でもそれだとスマホが繋がらない説明がつかない。いや、つくか。家族が電源を切っているだけで成立する。

 死んだんだ。それ以外あり得ない。君は私を蔑ろにしないから。

 体が泣く準備を迅速に始めるのを、待て、と抑える。待つのは得意でしょう? まだ二日目だ。もう少し待ってみよう。最悪の土日が来るけど、結論を出すのは早い。でもどうしてだろう、君が死んだから連絡がないと思ってから、心臓も手も汗も少し落ち着いた。私は受け入れる用意をもう始めているのか。タバコを消して、オフィスに戻る。仕事は能率が若干悪かったけど出来た。

 土曜日。いつも通りにジムに行く。特に誰とも喋らない。淡々と汗を流して帰った。常に君のことを考えている。死んだのか。そうじゃないのか。泣こうとするのをカウボーイが愛馬を宥めるように抑え続ける。泣くのはまだ早い。テレビとスマホで脳を削って、時間を捨てて日曜日も同じように過ごした。月曜日はいつもは嫌い。でも今日だけはやることを与えられるみたいで気が紛れる、感謝した自分を嗤った。もう一度電話をかけ、メールをした。「無事? じゃないよね」とだけ。夜に体重計に乗ったら三キロ痩せていた。鏡に映る顔も削いだみたいにげっそりとしていて、目の下に隈があった。上手く眠れてなくて、消化も出来ていないようだ。連絡は来ない。電話は繋がらない。火曜日、同僚に「大丈夫?」と真剣に心配する顔をされた。

「意外と大丈夫だよ」

 同僚はそれで退いたけど、多分、私は大丈夫ではない。


 水曜日、いつものホテルの部屋に行く。君が後から来るのが毎週のことだ。君を受け入れる前の部屋は去った後と比べてずっと狭い。それは私がそうだったからなのだと今日、知った。部屋が広い。君がいつも座るソファで、タバコを吸う。私は裸のネズミのように震えていた。これは最後の賭けだ。君が生きていて、連絡だけが取れないのなら、どうあってもここに来るはずだ。私達が唯一、一緒に過ごすここは、たったひとつの約束でもある。

 大体来る時間になっても来なかった。

 一時間待っても来なかった。

 時間がどんどん粘りを強めて、ゆっくりになる。私はタバコを何本も吸って、耐え切れない。テレビをつけた。だけどそこに君のニュースは流れない。スマホを持った。だけどそこに君のことは書かれていない。脳を削ってしまいたいのに、それが出来ない。ただひたすらに君が来ないことを数える。君が死んだことを確定させようとする圧力が内外からかかって、私は九時と決めた。九時までに来なかったら死んだことにしよう。お茶のペットボトルが空になって、次を開ける。

 私はいつの間にか、九時までをカウントダウンし始めていた。そんなものを待っている訳じゃないのに。そうなのか? 早く楽になりたい。

 粘る時間、浅い呼吸。

 九時になった。

 君は死んだ。途端にずっと待たせていた涙が溢れ出る。まるで心臓を搾ったみたいだ。それなのに頭の中は熱はあるけど整然としていた。君は死んだ。私はこれからひとり。それだけだった。誰に遠慮する必要もない二人の部屋だ。散々泣いて、でもこれから弔うことも出来ないで、日々を送るのだ。追いかけることは君は望まない。来週以降のホテルの予約をキャンセルしなきゃ。明日も仕事だ。泣きながらシャワーを浴びて、涙は出るけど寝る準備を入念にやって、ベッドの中でもしばらくそのままだった。部屋が広い。いつもよりずっと広い。最後の夜かぁ。多分どこかで寝た、目覚ましで起きた。目はパンパンに腫れていた。頬はこけて、唇の色が紫色だった。化粧で隠せるのは半分くらいだったけど、仕事に行った。


 そんな状態でも生きているし、食べるし、寝る。仕事だってする。強かな生き物だ。君のいない日々を受け入れる割合が毎日少しずつ増えていく。その実感が嫌だった。このままいつか君のことが過去に吸収されて、新しい恋をするかも知れない自分が不潔だ。でも確実に私の顔は元の形を取り戻しつつあるし、心に弾力が芽生え始めている。それも不愉快だった。



 一ヶ月後、私の輪郭は私にかなり戻っていた。君がいない心の穴は底なしの深さを保っているけど、まるで私は元の私のように振る舞っていた。

 水曜日、昼休みに喫煙所でタバコを吸っていたら手の中のスマホが震えた。知らない番号だった。まさか。電話に出る。

「あ、俺だけど」

 生きていた。まるで千年前から待っていた声のように響く。目から涙がポロポロと零れる。私の声は震えていた。

「ずっと待ってた」

 それが九十九パーセント嘘だと自覚はあった。でも一パーセント真実だった。

「ごめん。車に轢かれて死にかけてたんだ。スマホも壊れて。やっと外に出られるようになった」

「今日、会える?」

「流石にまだ無理。とにかく連絡だけしようと思って。あ、やば。またね」

 電話は切られた。通話終了と表示された画面を私はじっと見る。君が生きていた。流れていた涙は速やかに止まった。きっとまた会える。私の底から活力が龍が昇るように溢れて来た。君との日々が再開する。さっきまで死を受け入れていたのがカードを裏返すように一緒に生きる構えに変わる。ホテルを予約した。君が来ないことは分かっている。

 部屋に入ってみたらちゃんと狭かった。その狭さに笑う。覗き穴から外を見て、君が万が一来ないかどうかを試して、もちろん来なくて、ソファに座る。君がまたここに来ることを夢想していたら時間が加速して、すぐに夜になった。いつものルーティーンをやって、ベッドに入った。


(了)

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