第3話:蒸気修験、抜刀

「ガアアアアアッ!」


 鉄機兵が咆哮した。

 鼓膜を震わせる轟音と共に、数トンの巨体が床を蹴る。

 背中に埋め込まれた蒸気機関が暴走気味に赤熱し、右腕の巨大な回転ノコギリが、空気を切り裂きながら鴉(カラス)へと迫る。


 速い。

 その巨体からは想像もつかない加速だ。

 凛子は息を飲んだ。常人なら、瞬きする間に肉塊に変えられる。


「危ないっ!」


 凛子が叫んだ、その瞬間だった。


「……遅いな」


 鴉は、退屈そうに呟いた。

 彼は避けない。防御もしない。

 ただ、革手袋に包まれた指先で、腰のバルブを一つ、カチリと弾いただけだった。


 プシュッ。


 足元の床から、鋭い蒸気の噴射音が響いた。

 直後、鴉の姿が掻き消える。

 

 ドゴォォォォォン!


 鉄機兵のノコギリが、鴉のいた場所の床を粉砕し、瓦礫を撒き散らす。

 だが、そこにはもう誰もいない。


「な……?」

 凛子が目を丸くして周囲を探す。

「ここだ」

 声は、鉄機兵の頭上から降ってきた。


 鴉は、鉄機兵の肩の上に立っていた。

 重力を無視したような軽やかさ。

 彼の足裏には、微細な蒸気噴射口が仕込まれており、噴射圧を制御することで空気を踏み台にしていたのだ。


「ロシア製の『ヴォルク級』か。出力ばかりで制御系が雑だ。これじゃあ、ただの動く薪ストーブだな」

 鴉は鉄機兵の頭部をコツコツと靴先で叩き、冷ややかに分析する。

 その余裕。その傲慢さ。

 凛子の目には、それがたまらなく魅力的に映った。

(すごい……あんな化け物を相手に、遊んでるみたい……)


「ガウッ!」

 鉄機兵が自身の肩にいる鴉を振り払おうと暴れる。

 鴉はふわりと宙へ舞い、美しい放物線を描いて着地した。

 漆黒の外套が、優雅に翻る。


「さて、遊戯(お遊び)は終わりだ。黒岩の野郎が戻ってくる前に片付ける」

 鴉が、右手の振動刀を正眼に構える。

 刀身に接続された極細のパイプが脈打ち、青白い蒸気が刃を包み込んでいく。

 周囲の気温が、急激に上昇するのを凛子は肌で感じた。


「来るぞ、お嬢様。目を閉じてな」

「え……?」

「飛び散るオイルは、淑女の肌には似合わない」


 鴉が言い終えるより早く、鉄機兵が突進した。

 全身の排気口から黒煙を噴き上げ、捨て身のタックル。倉庫全体が震えるほどの質量攻撃。


 鴉は動かない。

 ただ、深く息を吸い込み、背中の機関を臨界点まで回転させる。


「八咫烏流、蒸気修験――」


 キィィィィン……!

 刀身の振動音が、超高周波へと変わる。

 世界がスローモーションになったかのように、凛子の目には見えた。

 鴉の足元で、圧縮された蒸気が爆発する。


「――壱ノ型、『螺旋(らせん)』」


 ドンッ!!


 鴉の姿が、一条の黒い雷光と化した。

 迎撃しようとした鉄機兵のノコギリごと、その巨体の中心を「貫通」して駆け抜けたのだ。


 一瞬の静寂。


 鴉は、鉄機兵の背後で、ゆっくりと刀を振るい、蒸気の残滓(ざんし)を払った。

 カシャン、と刀を鞘に納める音が響く。


 その音を合図にしたかのように。

 鉄機兵の胴体に、螺旋状の亀裂が走った。


「ガ、ア……?」


 ドパァァァァァァァッ!


 亀裂から、圧縮された蒸気とオイルが噴水のように噴き出した。

 超高速の回転を加えられた斬撃は、装甲を貫くだけでなく、内部の機関部をねじ切り、破壊し尽くしていたのだ。

 巨体が崩れ落ちる。

 ズズ……ンッ。

 地響きと共に、鉄の怪物はただのスクラップへと変わった。


「す、すごい……」

 凛子は腰が抜けたまま、その光景に見惚れていた。

 圧倒的。あまりにも圧倒的な、暴力と美の融合。

 月明かりの下、黒い蒸気を纏って立つその姿は、帝都のどんな英雄よりも気高く見えた。


 ガチャリ。


 その時、倉庫の扉が重々しく開いた。

 外の冷たい空気と共に、複数の足音が入り込んでくる。


「……おい、静かになったぞ」

「あの怪物が、女を食い殺して満足したのか?」


 おそるおそる顔を出したのは、黒岩だった。

 彼は部下を盾にしながら、カンテラを掲げて中の様子を窺っている。

 凛子が死に、怪物が停止していることを確認しに来たのだ。自分の不始末を、全て死人に押し付けるために。


「く、黒岩様……」

 凛子が睨みつける。

 黒岩は凛子が生きていたことに驚き、そして舌打ちした。

「チッ、生きていたか。しぶとい女だ……まあいい、怪物はどうなっ――ひっ!?」


 黒岩の言葉が、悲鳴に変わった。

 カンテラの光が、残骸となった鉄機兵と、その上に立つ「黒い影」を照らしたからだ。


 鴉は、ゆっくりと黒岩の方へ顔を向けた。

 鉄仮面の奥の金色の瞳が、暗闇の中でらんらんと輝く。

 その全身から立ち昇る殺気は、先ほどの怪物よりも遥かに濃密で、冷たかった。


「ば、化け物……! 貴様、何者だ! あの鉄機兵を一人でやったのか!?」

 黒岩が後ずさる。腰のサーベルに手をかけるが、震えて抜くことさえできない。

 部下たちも、未知の恐怖に圧され、銃を構えることすら忘れて立ち尽くしている。


 鴉は、一言も発さず、ゆらりと歩き出した。

 カツ、カツ、カツ。

 軍靴の音が響くたび、黒岩の顔から血の気が引いていく。


「く、来るな! 私は陸軍大尉だぞ! 国家の重要人物だぞ!」

 黒岩は錯乱し、近くにいた部下を鴉の方へ突き飛ばした。「やれ! 撃ち殺せ!」

 だが、部下は動けない。蛇に睨まれた蛙のように、鴉の威圧感に縛り付けられている。


 鴉は、黒岩の目の前まで歩み寄ると、ピタリと足を止めた。

 身長差。

 見下ろされる黒岩は、恐怖のあまり膝から崩れ落ち、尻餅をついた。

「ひぃッ……! た、助けてくれ……金ならある! 地位もやろう! だから……!」


 見苦しい命乞い。

 その醜態を、凛子も見ていた。

 これが、昼間に先輩を泥まみれにし、私を「猫」と呼んで侮辱した男の正体か。

 情けなくて、涙が出そうになる。


 鴉は、黒岩の顔の横にある鉄の柱に、ドンッ! と掌底を打ち込んだ。

 鋼鉄の柱が、飴細工のようにひしゃげる。

「ひいぃぃッ!」

 黒岩が悲鳴を上げ、股間を湿らせる。


 鴉は仮面越しに、侮蔑と憐憫を含んだため息をついた。

 そして、黒岩の耳元で、低く、冷たく囁いた。


「……女一人守れんのが、帝都のエリートか?」


 その言葉は、物理的な暴力以上に、黒岩のプライドを粉々に打ち砕いた。

 反論できない。

 圧倒的な強者に見下され、己の卑小さを突きつけられた屈辱。

 黒岩は言葉を失い、ただガタガタと震えて涙と鼻水を流すことしかできなかった。


 鴉はそれ以上、黒岩を見る価値もないとばかりに背を向けた。

 そして、呆然としている凛子の方へ一瞬だけ視線を流す。


「……いい記事を書けよ、お嬢様」


 フワッ。

 背中の機関から黒い蒸気が噴き出し、鴉の体を包み込む。

 次の瞬間、強風と共にその姿は夜空へと消えていた。


 後に残されたのは、月光に舞う一枚の黒い羽根と、腰を抜かしたままのエリート軍人。そして、微かに残る安煙草の香りと恋に落ちた少女だけだった。


「……はい」


 凛子は、誰もいなくなった夜空に向かって、小さく頷いた。



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