第4話:勘違いの朝

 翌朝。

 帝都日報社の編集部は、朝一番から凄まじい熱気――というよりは、一人の新人記者の熱暴走に包まれていた。


「聞いてください編集長! 昨夜の事件は、単なる事故じゃありません! 帝都の闇を切り裂く、新たな英雄の誕生なんです!」


 バンッ!

 花村凛子は、書き上げたばかりの原稿用紙の束を、編集長の机に叩きつけた。

 徹夜明けだというのに、彼女の肌はツヤツヤと輝き、瞳は興奮でギラギラしている。丸眼鏡がズレるのも構わず、彼女は捲し立てた。


「黒い蒸気の翼! 黄金の瞳! 悪を断つ神速の刃! その名は『鴉』! どうですか、この見出し! 一面トップ間違いなしですよ!」


 初老の編集長は、湯呑みのお茶をこぼしそうになりながら、引きつった笑みを浮かべた。


「いや、花村くん……。落ち着きたまえ。軍からは『ガス爆発事故』だと発表されているんだが……」


「軍の発表なんて大嘘です! 私はこの目で見ました! 黒岩大尉が私を囮にして逃げたことも、鴉様がそれを救ってくださったことも、全部真実です!」


「し、しーっ!声が大きいよ! 黒岩大尉の悪口は……」


 編集長は慌てて周囲を見回す。

 政府批判に厳しいこのご時世、陸軍のエリートを「腰抜けのクズ」と書くわけにはいかないのだ。


「とにかく、この原稿は過激すぎる。『謎の人物による救助活動があった』くらいに留めておきなさい」


「そんな! 鴉様のあの高潔な輝きを、そんな三行記事で済ませるなんて冒涜です!」


 凛子が頬を膨らませて抗議していると、編集部のドアがガラリと開いた。


「……ふわぁ。おはよーございまーす」


 気の抜けたあくびと共に現れたのは、葛野かどの鵜雄也うおやだった。

 いつものよれた着流し。寝癖のついた髪。そして、なぜか今日は動きが妙にぎこちない。


「あれ? 朝から賑やかだねぇ、凛子ちゃん。また編集長をいじめてるの?」

「いじめてません! 正義の主張です!」


 凛子はプイッと編集長から顔を背けると、鵜雄也の方へ駆け寄った。


「先輩! 遅いですよ! 大スクープ逃したくせに、重役出勤ですか?」

「いやぁ、昨日はちょっと……変な夢を見て寝違えちゃってさ」


 鵜雄也は苦笑いしながら、自分の席へ向かう。

 その一歩一歩が、実は地獄だった。


(イテテテ……。昨日の『螺旋』、ちょっと張り切りすぎたか……。背筋と太腿が悲鳴を上げてる……)


 昨夜の激闘の代償は、全身の筋肉痛として跳ね返ってきていた。

 特に、鉄機兵の攻撃を受け流した際の衝撃は、蒸気機関で相殺しきれず、生身の肉体に深い疲労を刻み込んでいたのだ。

 そんな彼の事情など露知らず、凛子は目を輝かせて鵜雄也に詰め寄った。


「聞いてください先輩! 私、運命の出会いをしちゃいました!」

「うん? 運命?」


 鵜雄也は痛む腰をさすりながら、椅子にどっかと座る。


「なんだ? 捨て猫でも拾ったの?」

「違います! 『漆黒の騎士様』です!」


 凛子は、まるで恋する乙女のように両手を組み合わせ、うっとりと宙を見つめた。


「昨夜、倉庫で危機一髪のところを助けていただいたんです。背中から黒い蒸気の翼をバァって出して、巨大な怪物をガーンっと一撃で粉砕して……! もう、言葉にできないくらい格好良かったんです!」


「へぇ、そりゃすごいねぇ」


 鵜雄也は他人事のように相槌を打ちながら、引き出しから安物の煎餅を取り出してかじった。


(……目の前にいるんだけどな、その騎士様)


「反応が薄いですよ! もっと驚いてください! それに比べて、あの黒岩大尉ときたら……!」


 凛子の表情が一瞬で般若のように変わる。


「私を突き飛ばして逃げたんですよ!? 『死んで貢献しろ』だなんて、信じられます!? あんな男、二度と取材しません! いや、逆にスキャンダルを暴いて社会的に抹殺してやります!」


「おー、怖い怖い。黒岩の旦那も、敵に回しちゃいけない相手を怒らせたもんだ」

 鵜雄也は心の中で(ざまぁみろ)と舌を出した。


 凛子は一通り黒岩への呪詛を吐き出すと、再びうっとりモードに戻り、鵜雄也をじっと見つめた。


「……はぁ。先輩も、少しは鴉様を見習ってくださいよ」

「えっ、俺が?」

「そうです。鴉様は強くて、優しくて、ダンディで、レディファーストも完璧でした。それに引き換え先輩は……」


 凛子は鵜雄也の頭から足先までをジロジロと眺める。


「万年ヒラ記者、借金持ち、着流しはヨレヨレ、おまけに筋肉痛で錆びた機巧みたいな動き……。天と地ほどの差ですね」


「……手厳しいなぁ」

 鵜雄也はポリポリと頬をかいた。


 自分の正体と比較されてディスられるというのは、なんとも複雑な気分だ。

 だが、同時に安堵もしていた。彼女がここまで元気に怒っているなら、昨夜の恐怖はもう大丈夫だろう。


「でも、まあ」

 凛子の声色が、ふと柔らかくなる。


「カメラが無事だったのは、先輩のおかげです。……そこだけは、感謝してます」

 彼女は少し照れくさそうに、視線を逸らした。


「あの時、先輩が庇ってくれなかったら、私、心が折れてたかもしれません。……ありがとうございました」


 素直な感謝の言葉。

 鵜雄也は、煎餅をかじる手を止めた。

 普段は口うるさい後輩の、ふとした瞬間に見せる健気さ。これがあるから、彼女を守りたくなるのだ。


「……いいってことよ。凛子ちゃんの笑顔が曇るよりは、俺の頭が泥だらけになる方がマシだからな」


「なっ……! 茶化さないでください!」


 凛子は顔を真っ赤にして、鵜雄也の背中をバンと叩いた。


「ぐわっ!? い、痛ぇ……!」


「あ、ごめんなさい! そんなに強く叩いてないのに……先輩、やっぱり体訛ってますよ! 明日から一緒に軍隊体操しましょう!」


「勘弁してくれ……」


 鵜雄也が机に突っ伏して悶絶していると、凛子がふと、鼻をひくつかせた。


「……あれ?」

 凛子が、鵜雄也の襟元に顔を近づける。

 急な接近に、鵜雄也の心臓が跳ねた。


「ど、どうした?」

「先輩……なんか、鴉様と同じ匂いがします」


 ドキリ。

 鵜雄也の背筋に冷や汗が流れる。


 昨夜、別れ際に蒸気式消臭スプレーを使うのを忘れていたか? それとも、血と硝煙の匂いが残っているのか?


「に、匂い? 加齢臭じゃないか?」

「違います! なんかこう……鉄と、オイルと、それから……」


 凛子の大きな瞳が、鵜雄也の瞳を覗き込む。丸眼鏡の奥で、探偵のような鋭い光が宿る。


 バレるか?

 鵜雄也が覚悟を決めて、言い訳を考えようとした時。


「……あ、わかった」

 凛子は納得したようにポンと手を打った。


「先輩、また安物のタバコ『ゴールデンバット』吸いましたね? 鴉様からも、微かにその匂いがしたんです」


「……へ?」


「でも、鴉様みたいな高貴な方が、なんで先輩みたいな安タバコを……。きっと、庶民の暮らしを視察するために、あえて嗜んでらっしゃるんですね! 素敵……!」


 凛子は勝手に解釈し、勝手に萌えて、頬を赤らめている。

 鵜雄也は脱力して、深いため息をついた。


「……そうだな。きっとそうだよ」

(助かった……。つーか、俺の扱いの低さよ)


「あ、そうだ先輩。これ、見てください」


 凛子は懐から、ハンカチに包まれた「何か」を大事そうに取り出した。

 そっと開かれた布の上にあったのは、一枚の黒い羽根。

 昨夜、鵜雄也が飛び去る際に残していった、機巧の放熱フィンの一部だ。


「鴉様が残していった羽根です。……これ、私の宝物にするんです」


 凛子は、まるで聖遺物でも拝むように、うっとりと羽根を見つめている。


「いつかまた、鴉様に会えたら……その時は、きちんとお礼を言いたいな」


 その横顔は、勝気な新人記者ではなく、恋する一人の少女のものだった。

 鵜雄也は、かける言葉を飲み込んだ。


 正体を知られるわけにはいかない。知られれば、彼女は裏の世界に巻き込まれる。

 自分はただの「無能な先輩」でいい。彼女が光の中を歩けるなら、自分はずっと影でいい。


「……会えるといいな」

 鵜雄也は、ぶっきらぼうにそう言って、書きかけの記事に向き直った。


 凛子は嬉しそうに頷き、自分の席へと戻っていく。


 その時。

 窓の外の塀に、一匹の黒猫が止まっているのが見えた。

 猫は鵜雄也と目が合うと、小さく尻尾を振って、路地裏の方へと消えていった。


(……合図か)

 八咫烏の連絡網だ。


 休息の時間は終わりらしい。

 鵜雄也は伸びをするふりをして立ち上がった。


「あー、ちょっと腹が減ったから、早めの昼飯に行ってくるわ」

「えっ、まだ一〇時ですよ!? 先輩、仕事してください!」

「腹が減っては戦ができぬ、ってね。……取材のネタも拾ってくるからさ」


 凛子の小言を背中で受け流し、鵜雄也は編集部を出た。

 その瞳から、昼行灯の光が消え、鋭い「鴉」の光が宿る。


 次なる指令が、彼を待っていた。


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