第2話:怪物の宴
死の予感が、冷たい雨のように背筋を走り抜けた。
目の前には、蒸気を噴き上げる鉄の怪物。
背後からは、得体の知れない闇が迫る。
凛子は恐怖に凍りつき、悲鳴すら上げられずにいた。
――ガギィンッ!
鼓膜をつんざくような金属音が響いた。
驚いた凛子が転倒した。怪物の回転ノコギリが、凛子の頭上数センチの空気を切り裂き、背後の鉄扉に火花を散らす。
「……ッ、痛……」
肘を強打し、激痛が走る。だが、生きている。
凛子は泥だらけになりながら顔を上げた。
怪物は、獲物を取り逃がしたことに苛立つように、蒸気機関を唸らせている。その赤い複眼が、再び凛子を捉えようとギョロリと動いた。
「な、なにごとだ!」
その時、倉庫の入り口から怒声が響いた。
複数の軍靴の音。カンテラの光。
現れたのは、黒岩と、数名の武装した部下たちだった。
彼らは騒ぎを聞きつけ、慌てて駆けつけたのだろう。だが、その表情は「救援」に来た者のそれではない。自分たちの隠していた秘密が暴かれたことへの、焦燥と恐怖に歪んでいた。
「く、黒岩様……!」
凛子は希望にすがりつくように叫んだ。
昼間、あんな屈辱を受けた相手だ。だが、今は軍人である彼だけが頼りだった。
「助けてください! この怪物が急に……!」
凛子の声に、黒岩が視線を向ける。
そして、その奥で暴れる「鉄機兵」の姿を認めると、彼は顔面を蒼白にして叫んだ。
「馬鹿な! 制御ユニットが外れているだと!? あのロシア製のポンコツが、勝手に起動したというのか!」
「大尉! 危険です、下がってください!」
部下の一人が叫ぶ。怪物は、新たな侵入者である黒岩たちに標的を変え、蒸気を噴射して突進を開始した。
「ガアアアアアッ!」
重戦車のような突進。床のレンガが砕け散る。
人間の力で止められる質量ではない。
「ひっ……!」
黒岩は腰を抜かしかけ、後ずさる。
その視界の端に、床に倒れる凛子の姿が入った。
瞬間、黒岩の瞳に宿ったのは、もっとも醜悪な、自己保身の色だった。
「……そうだ。貴様だ」
黒岩は、震える凛子のもとへ駆け寄ると、助け起こすのではなく――その細い肩を、思い切り掴んだ。
「え……?」
「貴様が、勝手に忍び込んだのが悪いんだぞ!」
ドンッ!
黒岩は渾身の力で、凛子を怪物の進行方向へと突き飛ばした。
「あ……っ!」
不意を突かれた凛子の体は、怪物の目の前へと投げ出される。
「大尉、なにを……!?」
「囮(だ! その女が食われている間に退却する! 急げ!」
黒岩は醜く顔を歪め、部下たちを押し退けて我先にと出口へ走った。
「ま、待ってください! 置いていかないで……!」
凛子が叫ぶ。だが、黒岩は一度も振り返らなかった。
「三文記者風情が、私の盾になれるなら本望だろう! 死んで貢献しろ!」
捨て台詞と共に、重厚な扉が外から閉ざされる音がした。
ガチャリ。
施錠される音。
静寂。
そして、直後に響く、怪物の荒い排気音。
凛子は、冷たい床の上で呆然としていた。
見捨てられた。
それも、ただ見殺しにされたのではない。自分の命を守るための「肉の盾」として、怪物の前に放り出されたのだ。
(……ひどい)
恐怖よりも先に、深い絶望が心を塗りつぶしていく。
これが、帝都のエリートの正体なのか。
これが、私たちが信じていた「新しい時代」の指導者なのか。
「ガ、ア……」
怪物が、凛子を見下ろしている。
回転ノコギリが、キィン、キィンと不快な音を立てて空転している。
逃げ場はない。武器もない。
あるのは、首から下げたカメラだけ。
凛子は震える手で、カメラを強く抱きしめた。
昼間、先輩が泥まみれになって守ってくれたカメラ。
まだ割賦払いも残っている。一度も、納得のいくスクープなんて撮れていない。
(先輩……ごめんなさい……)
脳裏に浮かぶのは、故郷の両親でもなく、黒岩への恨み言でもなく、なぜかあの昼行灯な先輩の笑顔だった。
泥だらけの顔で、「水も滴るいい男」なんて笑っていた、バカな先輩。
もし、ここに彼がいたら。
きっとまた、震えながら私の前に立ってくれるのだろうか。
そんなことしたら、先輩まで死んじゃうのに。
「……さよなら」
凛子はギュッと目を閉じた。
怪物が腕を振り上げる風圧を感じる。
死の冷たさが、首筋に触れようとした、その瞬間。
――キィン!
鼓膜を引き裂くような高周波音が、倉庫の空気を震わせた。
怪物の咆哮ではない。
もっと鋭く、もっと澄んだ、研ぎ澄まされた刃の共鳴音。
ズドンッ!!
直後、天井のガラス窓が粉々に砕け散った。
月光と共に、黒い影が垂直に落下してくる。
怪物のノコギリが凛子に届く寸前、その「影」は凛子と怪物の間に割って入った。
ガギィン!
激しい火花が散り、凛子の頬を照らす。
恐る恐る目を開けた凛子は、信じられない光景に息を飲んだ。
怪物の巨大な回転ノコギリを、たった一本の「長ドス」が受け止めていたのだ。
いや、ただのドスではない。刀身に這わせた極細のパイプから高圧蒸気を噴射し、超高速振動させている特殊兵装。
それを持つ男の背中は、夜の闇よりも深く、鋼のように頼もしく見えた。
「……まったく。お転婆な『子猫』を拾うのも、骨が折れるぜ」
男が低く呟く。
その声は鉄仮面を通したようにくぐもっていたが、不思議な温かさと、圧倒的な余裕を帯びていた。
かつて黒岩が凛子を「子猫」と呼び捨てたのとは違う。そこには明確な庇護の意志と、敵への痛烈な皮肉が込められていた。
男が腕に力を込める。
背負った機関部から、タービンが回転する甲高い音が響いた。
「蒸気圧、
ドォン!
男が刀を一閃させた瞬間、刀身の排気口から超高温の蒸気が爆ぜた。
物理的な衝撃だけではない。圧縮された熱量が、怪物の装甲をバターのように焼き切りながら弾き飛ばしたのだ。
「ガアッ!?」
数トンの鉄塊が、紙屑のように宙を舞い、壁に激突して火花を散らす。
その衝撃の余波で、男の背中の機関から噴き出した余剰蒸気が、夜空に巨大な「黒翼」のシルエットを描き出していた。
男はゆっくりと体勢を直すと、凛子の方へ振り返った。
顔の上半分を覆う、鳥の嘴(くちばし)を模した無骨な鉄仮面。
その奥で、金色の瞳が鋭く輝いている。
漆黒の
「……神様?」
凛子の唇から、無意識に言葉が漏れた。
男は仮面の奥で微かに笑ったように見えた。彼は革手袋を嵌めた手を差し出し、腰を抜かしている凛子の腕を優しく引き上げた。
「神じゃない。ただの、通りすがりの『鴉――カラス』だ」
その瞬間、凛子の心臓が早鐘を打ったのは、恐怖のせいだけではなかった。
黒岩に見捨てられた絶望の淵で、月光を背負って現れた黒い翼。
そのあまりにも圧倒的な「美しさ」に、彼女の魂は鷲掴みにされていたのだ。
怪物が瓦礫の中から起き上がり、怒り狂って咆哮を上げる。
鴉と名乗った男は、凛子を背中に庇うように立ち、
「さて。……黒岩の野郎には後でツケを払わせるとして」
男の背中の機関が、赤熱し、唸りを上げる。
「まずはこのダンス・パートナーを踊り疲れるまで回してやるとするか」
凛子は、その背中から目を離せなかった。
最強の機巧使いの背中。
(なぜだろう)
その黒い蒸気の中に混じる、安物のタバコとインクの匂いが――どうしようもなく、彼女の心を落ち着かせた。
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