帝都の無能記者、実は世界最強のスパイ〜「先輩、仕事してください!」と俺を叱る後輩が、夜の「英雄様」の正体に気づく様子は無さそうだ〜『隠密とカラクリ』

いぬがみとうま

第1話:泥濘(ぬかるみ)の記者

 明治四十五年、帝都・東京。

 レンガ造りの街並みにガス灯が揺らめき、その頭上を、無数の蒸気パイプが血管のように這う街。

 昼夜を問わず吐き出される白煙が空を覆うこの場所で、その可憐な怒声は、蒸気の排気音よりも高く響いていた。


「もう、先輩! またそんなところで油を売ってるんですか!?」


 帝都日報社、編集部の一角。

 資料と書き損じの原稿用紙が雪崩を起こしている文机に、一人の男が突っ伏していた。

 葛野かどの鵜雄也うおや。よれた着流しに、ボサボサの黒髪。背中は丸まり、覇気の欠片も感じられない、この新聞社の名物「昼行灯」である。


「……んあ? なんだ、凛子ちゃんか……。いま、いい夢見てたんだけどなぁ。羊羹の食べ放題に行く夢……」

「夢なんて見てる場合ですか! 黒岩大尉の凱旋パレードの取材、もう始まっちゃいますよ!」


 机をバンと叩いて彼を起こしたのは、花村はなむら凛子りんこ

 栗色のボブカットに、矢絣やがすりの着物と海老茶色の袴。鼻の上にはちょこんと丸眼鏡が乗っている。この編集部で一番若く、そして一番「新しい時代」に燃えている新人記者だ。

 彼女の細い首には、家賃数年分ほどの最新式ドイツ製カメラ「ライカ」が、重々しくも誇らしげに下げられている。それは彼女がなけなしの給料を貯め、借金までして手に入れた、記者としての「魂」そのものだった。


 鵜雄也はあくびを噛み殺しながら、けだるげに体を起こした。

「あー、あのエリート様か。俺、ああいう堅苦しいの苦手なんだよなぁ。凛子ちゃん一人で行ってくれば?」

「なっ……! 先輩が主担当でしょう! それに、私のライカは重いんですから、荷物持ちくらいしてください!」


 凛子はプリプリと怒りながらも、鵜雄也の机の上に散乱していたメモを綺麗に揃え、冷めてしまった茶を新しいものに入れ替えている。

 さらに、鵜雄也が適当に結んでいた帯を、ギュッと力強く締め直した。


「……ほら、シャキッとしてください。先輩は私がいないと、帯ひとつまともに締められないんですから」

「ぐぇっ、苦しいって凛子ちゃん」

「これくらいが丁度いいんです! さあ、行きますよ。文明開化の音がする方へ!」


 凛子はぶつくさと文句を言いながらも、その手つきは甲斐甲斐しい。彼女は鵜雄也のことを「ダメな先輩」と認識しつつも、決して見捨てようとはしない。(……まあ、この世話焼きな性格に、俺が甘えてるだけなんだが) 鵜雄也は苦笑しながら、懐の奥を探った。

 そこには、誰にも見せない「裏」の装備――超小型高圧ボイラーを内蔵した、特殊な懐中時計が眠っている。指先でその冷たい感触を確かめ、彼は小さく息を吐いた。


「へいへい。行きますよ、未来の大記者様」

「もう、からかわないでください!」


 凛子は希望に満ちた足取りで編集部を飛び出した。

 鵜雄也はその眩しい背中を見つめ、独りごちる。

「……文明開化、か。光が強くなりゃあ、影も濃くなるってのにな」

 その呟きは、誰の耳にも届くことなく、街の蒸気音にかき消された。


 ◆


 新橋停車場は、異様な熱気に包まれていた。

 蒸気機関車の轟音と共に降り立ったのは、陸軍の期待の星、黒岩くろいわ義政よしまさ大尉だ。

 欧州視察から帰国した彼は、最新鋭の「対人制圧用蒸気兵器」の輸入契約をまとめた立役者として、群衆の喝采を浴びていた。


「見ろ、あれが黒岩様だ! 若くして参謀本部入り確実と言われる天才だぞ!」

「なんと凛々しい……!」


 プラットホームの中央。仕立ての良い軍服に身を包み、サーベルを吊るした黒岩は、傲慢な笑みを浮かべて手を振っている。その顔には「私が帝都の支配者だ」と言わんばかりの選民意識が張り付いていた。


 凛子は人混みをかき分け、最前列へと躍り出た。


「黒岩様! 帝都日報の花村です! 欧州の最新技術について、一言お願いします!」


 カメラを構える凛子。その真剣な眼差しに気付いた黒岩は、ふと足を止めた。

 だが、その視線は凛子の質問ではなく、彼女の容姿――愛らしい顔立ちと、袴姿の曲線に向けられていた。ねっとりとした、品定めするような視線だ。


「ほう。三文新聞にしては、威勢のいい可愛らしい子猫がいるな」


 黒岩は凛子の顎先に指を伸ばそうとする。


「どうだ? そんな埃っぽい仕事より、私の秘書にならないか? 夜の『手ほどき』も含めて、たっぷりと可愛がってやるが」


「っ……!」


 露骨な侮辱と下卑た視線。凛子の顔から血の気が引き黙る。


「ほうこの俺を無視するか。三文新聞の記者風情、生意気な玩具オモチャを持ちやがって」


 黒岩は不快そうに鼻を鳴らすと、手にした鞘にしまった軍刀の先を、無造作にカメラのレンズへ向けた。


「その汚らわしいレンズを私に向けるな。……邪魔だ」


 ヒュッ。


 黒岩が鞘のに納めたままの軍刀を振り上げた。叩き壊すつもりだ。


 凛子は愛機を庇おうと身を縮こまらせるが、間に合わない。

「あ……っ!」


 ガツッ。

 鈍い音が響いた。

 だが、ガラスの割れる音ではない。


「……おっと。危ない危ない。大尉殿、高級品なんで勘弁してくださいよ」

 硬い鞘を受け止めたのは、鵜雄也の背中だった。

 彼は凛子を庇うように割り込み、自らの体で凶器を受け止めていたのだ。

「先輩……!」

 黒岩の眉がピクリと跳ねる。自分の行動を邪魔されたことへの苛立ちが、顔を歪ませた。

「……なんだ、貴様は」

「しがない先輩記者です。うちの凛子の商売道具を壊されちゃあ、俺の昼寝の場所がなくなっちまうんでね」

 鵜雄也は痛がる素振りも見せず、へらへらと笑いながら頭を下げる。


 だが、黒岩のプライドは、薄汚い記者の介入を許さなかった。


「……不愉快だ」


 黒岩は、近くの従卒が持っていた清掃用のバケツを奪い取ると、躊躇なく中身をぶちまけた。


 バシャッ!


 真っ黒な液体が、鵜雄也の頭から浴びせられる。

 それは、駅舎の煤と泥、そして油が混じった汚水だった。


「きゃっ!」


 凛子は咄嗟にカメラを守ったが、鵜雄也は全身ずぶ濡れになった。着流しは泥まみれになり、髪からはドロドロとした黒い滴が垂れる。

 周囲の群衆が一瞬静まり返り、やがてクスクスという嘲笑がさざ波のように広がった。


「薄汚い着流しに、猫背。……貴様のような前時代の遺物が、私の視界に入るな」


 黒岩はハンカチで手を拭うと、ゴミを見る目で鵜雄也を一瞥した。


「ゴミには汚水がお似合いだ。……失せろ。二度と私の前に顔を見せるな」


 鵜雄也は、顔についた泥を手の甲で拭った。

 その表情は――まだ、へらへらと笑っていた。


「……冷たいなぁ。大尉殿は、歓迎の挨拶も欧州流ですかい?」

「口答えをするな、三文記者風情が!」


 黒岩は吐き捨て、踵を返して去っていった。


「先輩……ごめんなさい、私のキャメラのために……!」


 凛子は涙目になりながら、自分のハンカチを取り出し、震える手で鵜雄也の顔を拭こうとする。


「大事な着物が……あんなことされたのに、どうして……」


 鵜雄也は、凛子の手を優しく止めた。


「いいってことよ。キャメラが無事でよかったな。まだ割賦払いローン、残ってるんだろ?」

「バカ! ……本当に、バカなんだから!」


 凛子は悔しさと情けなさで声を震わせながら、それでも懸命に先輩の泥を拭った。


 だが、凛子は気付いていなかった。

 泥に塗れた鵜雄也の瞳の奥で、金色の光が一瞬だけ鋭く輝いたことを。

 そして、彼の懐中で、超小型ボイラーの圧力計の針が、静かにレッドゾーンを振り切ろうとしていることを。


(……黒岩、か。俺を侮辱するのはいい。だが――その娘の夢キャメラに触れようとした罪は、高くつくぜ)


 鵜雄也は泥の味を噛み締めながら、去りゆく黒岩の背中に、冷徹な殺気を隠して焼き付けた。


 ◆


 その夜。

 帝都には、冷たい雨が降っていた。ガス灯の光が濡れた路面に滲んでいる。

 港湾地区にある赤煉瓦の倉庫街。そこは、黒岩が持ち帰った「最新兵器」が極秘裏に保管されている場所だった。


 雨音に紛れ、一つの人影が倉庫の裏手に回った。

 凛子だ。

「絶対にスクープを撮ってやるんだから……。先輩のあんな姿、二度と見たくない……!」

 昼間の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

 自分の誇りを守るために、泥をかぶって笑っていた先輩。その優しさに報いるためにも、黒岩の不正を暴き、社会的に抹殺してやる。それは彼女なりの「罪滅ぼし」だった。


 凛子は通用口のドアノブに手をかけた。

 鍵がかかっているはずだ。しかし――。

 カチャリ。

 ドアは音もなく開いた。


「……開いてる?」


 鍵穴にはピッキングの痕跡はない。単純な閉め忘れか、もしくは内部の誰かが意図的に開けたのか。

 軍の管理体制の杜撰さに呆れつつ、凛子にとっては好機だった。


 凛子は暗い倉庫の中へ足を踏み入れる。

 カビとオイルの匂い。そして、獣臭い異臭が漂っている。

 彼女は愛機ライカを構え、奥にある巨大な檻のようなものへ近づいた。


「……これが、最新兵器?」


 檻の中には、人型の何かが蹲っていた。


 その時。

 バヂィッ! 檻の錠前が、内側から弾け飛んだ。


「ガアアアアアッ!」


 雷鳴のような咆哮と共に、檻を蹴破って現れたのは、鉄と肉が融合した異形の怪物だった。

 ロシアの生体改造兵器――「鉄機兵」。


 蒸気機関が埋め込まれた筋肉が脈打ち、右腕の代わりに巨大な回転ノコギリが装

着されている。その複眼のような赤いセンサーが、ギロリと凛子を捉えた。


「ひっ……!」

 凛子は足がすくみ、後ずさる。枯れ木を踏む音が、静寂に響いた。

 怪物が、蒸気を噴き出しながら一歩を踏み出す。その一歩だけで、倉庫の床が震えた。


「だ、誰か……!」


 凛子の悲鳴は、雨音に吸い込まれて消える。

 震える指でシャッターを切ることさえ忘れ、彼女はただ、迫り来る死の予感に立ち尽くしていた。



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