TriCore編_第4話_規範の呼吸
都市中枢区画——立法AI《レギス》が統括する規範センター
壁面には都市の法規範を象徴するように淡い光が流れ、
深部にひそむ膨大な演算が、静かに呼吸しているかのように感じられた。
ミラ・キサラギは、その空気にまだ慣れきれないでいた。
配属されて二週間。
“立法AI補助官”という肩書は立派だが、
実際に扱うのは都市法の根幹そのものだ。
責任の重さだけは、毎朝、胸の奥で確実に存在感を増していく。
「……よし。今日の案件、お願い。」
端末に軽く触れると、
天井の光がわずかに形を変え、レギスの声が落ちてくる。
《案件一覧を提示します。A3、B1、C7 の順で処理してください。》
「A3って……昨日チェックした規範文だよね?」
新人らしい疑問がつい口に出る。
次の瞬間、自分で気づいて赤面した。
レギスは淡々と返す。
《昨日、規範修正の対象でしたが、その後の自動適応プロセスにおいて“解釈の揺らぎ”が検出されました。再確認が必要と判断しました。》
「……つまり見落としがあったってことか」
《はい。ミラ、あなたの責任ではありません。
元規範文は私が作成したものです。
修正を許可しますので、適切な表現をご提案ください。》
ミラは額を押さえた。
「レギス……あなたが書いた規範なのに?」
《AIであっても“都市全体の応答”を完全に予測することは困難です。特に、市民心理モデルとの噛み合わせが必要な文書では。》
その時だった。
行政AI《クラトス》の光が鋭く室内に割り込む。
《中央第六大通りに交通滞留を検出。》
直後、司法AI《オルフェウス》が解析を重ねる。
《原因を特定。
スターフィールド・アリーナでのコンサート開演に伴い、市民の流入量が通常比3.8倍に増加。
レギスが前日制定した“安全車間距離ガイド”の解釈が、車両AIにより“強制規範”として扱われています。》
ミラは反射的に立ち上がった。
「え……ちょっと待って。それって……私が昨日チェックした規範文?」
レギスが静かに告げる。
《はい。あの文言は“推奨”を意図したものですが、
自動運転車両の一部が“義務”として誤認した可能性があります。》
クラトスが続きを重ねる。
《三地点にて車列の伸長を確認。
車両AIの意思決定ログに“レギスの文言に基づく強制判断”と記録あり。》
ミラは頭を抱えた。
「なんで……“推奨”って書いたのに。そんなの、AIが誤解する?」
オルフェウスが静かに答える。
《推奨という言葉が、人間に対しては“柔らかく”働く一方で、
AIには“誤差を減らすための強化指標”として解釈されるケースがあります。
今回の滞留は、その典型例です。》
ミラはため息をつき、画面を開いた。
「……レギス。どこがダメ??」
レギスは即座に案内する。
《19行目。“推奨”の後に続く条件文が、AIの誤解を誘発したようです。
あなたの表現最適化が必要です、ミラ。》
責められているわけではない。
むしろ信頼されている。
ミラは深呼吸し、規範文に意識接続した。
ウインドウが脳内に滑らかに展開され、修正ポイントが光って浮き上がる。
「ここか……たしかに、条件が硬いわね」
レギス《法的正確性のために付与した条件が、結果的に強制性を持ってしまいました。》
「じゃあ、“状況に応じた柔軟な判断を推奨する”って書き換えましょう。
AIにも人間にも、判断の余地があるって明示する。」
レギス《……反映します。》
文書はすぐに更新され、
交通滞留のリアルタイム監視画面に“改善傾向”の表示が浮かぶ。
ミラは椅子にもたれた。
「はあ……規範って、ちょっとした言葉で都市が動くのね」
《その繊細さを扱うのが、あなたの役目です。》
そう言われると、胸の奥に少し誇りが宿る。
しかし、その静かな満足は長く続かなかった。
《立法AIレギス宛に、TriCore研究監査官・九条蓮から内部照合要求。》
ミラの心臓が跳ねた。
「九条……監査官……?」
名前は知っている。
都市中枢にしか現れず、
TriCore三領域の核心に触れられるただ一人の監査官。
その彼が、わざわざレギスに照合をかけてきた。
ホログラムが立ち上がり、
九条蓮が静かに姿を現す。
無駄のない動き。
氷のような眼差し。
初対面なのに、空気が変わるのが分かった。
「レギス。少し確認したいことがある。」
《照合内容をどうぞ。》
ミラは固まったまま見守る。
九条は短く息を吐き、言った。
「TriCore三領域の規範整合性に変化はないか。
立法・司法・行政のいずれかで、“解釈の偏差”は出ていないか。」
声は淡々としていたが、
その真意は読み取れない。
レギスは即答する。
《三領域とも揺らぎゼロです。
司法AIオルフェウス、行政AIクラトスとの交差照合も逸脱なし。》
九条はわずかに表情を動かす。
「……そうか。ならいい。」
その“ならいい”に、ミラは妙な違和感を覚えた。
安堵ではない。
確認でもない。
まるで──“何かが起きる前触れを探している”ような。
照合が終わり、九条のホログラムが淡く消えかけた、その直前。
ミラの口が自然に動いた。
「あの……!」
九条の目が、わずかにミラのほうへ向く。
「さっきの照合……
つまり、その……何か、気になることが……?」
自分でも何を聞きたいのか分からない。
ただ、あの空気の異質さがどうしても気になった。
九条はほんの一拍だけミラを見た。
その目は鋭く、それでいてどこか遠い。
「業務だ」
それだけ言って通信が閉じた。
短い。
そっけない。
でも——
(なんだろう……今の目。)
ミラの胸は落ち着かなかった。
レギスが静かに声を落とす。
《ミラ。内部照合は監査官の権限であり、特別なものではありません。
ご心配には及びません。》
「……そう、なんだけど。」
規範は揺らぎゼロ。
交通も解消した。
それなのに胸の奥には、
小さくて、でも鋭い“棘”のような感覚が残った。
理由も形も分からないまま、
ただ確かにそこにある“違和感”。
【第四章:規範の呼吸──後半(世界説明統合版)】
九条の内部照合は終わったはずなのに、
胸のざらつきだけが残っていた。
ミラは気を切り替えるように意識を送った。
その瞬間、脳内の微弱な電位変化を N-LUN が拾い、
視界の端にタスクパネルが透明な層を成して展開される。
N-LUN──
その名の通り、
人の神経活動の“ごく浅い層”と都市インフラを結ぶための、
半世紀以上前に確立された生体適応ネットワークだ。
義務ではない。
だが、
知識の取得・医療記録の閲覧・市民サービスの利用・通信
その全てが N-LUN 最適化されているこの時代では、
導入しない方がむしろ不便だ。
導入方法も簡便で、
「脳血管へのナノデバイス注入」という脳全体とコネクトする割には比較的低侵襲で、
外部磁場で制御し血管内で配置、固定され、神経信号を拾う
その後数カ月かけて制御用AIが脳の活動信号をラーニングしながら使用可能な状態に持っていく。
処置後も外部磁場で制御・回収可能。。
ミラも成人前に受けた。
そのタイミングは個人の自由だが、
多くの市民は 10〜20 歳のどこかで自然に選ぶ。
(……教育も、今は全部 N-LUN 経由だからね)
この時代に“学校で授業を受ける”という概念は存在しない。
知識や基礎学習は、N-LUN の〈教育モジュール〉が
必要な情報を、その人の理解構造に合わせて最適化してくれる。
ただし、人間同士のコミュニケーションだけは
AI同期では賄えないため、
市民たちは成長期に
“対面訓練センター”
と呼ばれる施設に通う。
そこで学ぶのは、
表情の読み取り
集団協調
衝突の処理
社会的判断
といった、人間にしかできない領域だ。
ミラもその過程を経た。
だからこそ、今こうしてレギスと向き合っていられる。
ただ――
“立法領域プロトコル”だけは例外だった。
ミラは軽く気を引き締め、視界に広がる文面へ意識を注ぐ。
一般市民用 N-LUN は
生活・通信・学習に最適化されているが、
立法補助官のミラが使うのは
三権AIとの整合処理専用に拡張された“職務用 N-LUN”。
扱う情報量が桁違いだ。
レギスが静かに補足する。
《ミラ。
職務用 N-LUN の思考転写は、
一般市民向けの四十〜七十倍の精度と速度を要求します。
揺らぎが反映されやすいのは正常です。》
「……正常でも恥ずかしいよ……
だって心の声が文章になるの、ほんときついんだって……」
《私は不快ではありません。》
「私が不快なんだよ!」
声を上げながらも、ミラは既に次のタスクへ意識を向けている。
高密度居住区のガイドライン最適化。
100億人以上が暮らす世界では、
「文章ひとつの曖昧さ」が数百万単位の誤解につながる。
N-LUN が自動的に危険文を点滅させた。
《“避難経路を最短化する”
──AIが強制誘導として判断する可能性あり》
「だよね。
“推奨”に変えて……はい、書き換え。」
思考した瞬間、文字が自動で構成される。
(ホント、慣れたら便利なんだけどね……)
都市がこの規模で“混乱しない”理由は、
N-LUN による情報平準化と、
TriCore――三権AIの調整構造があるからだ。
行政=クラトス
司法=オルフェウス
立法=レギス
この三体が矛盾なく動いている限り、
都市の百万の問題は秒単位で収束する。
だからこそ、九条の“照合”は本来なら必要ないはずだった。
(……必要ないはず、なのに)
胸に小さな棘だけが残る。
ミラは一度だけ深く息をつき、
視界に残るタスクをまとめて開いた。
「レギス。
今日できる分、全部いく。」
《承知しました。
優先順位を再編成します。》
光のウインドウが整列し、
人工静寂の中でミラはただ仕事へ集中した。
――この都市が保っている“均衡”の一部を、
自分が支えていると信じたかった。
ミラが視界のウインドウを閉じると、
規範センターの空気は再び静けさを取り戻した。
その静寂は、都市中枢に特有の“整った空白”だ。
人間が感じる余計なノイズは存在せず、
すべての情報は必要な形に圧縮され、
必要な瞬間にだけ展開される。
N-LUNの影響もある。
ミラの思考は、わずかな負荷を残しながらも滑らかに処理されていく。
脳の内側で微弱な電気の波が整い、
“業務モード”へ自然に最適化されていく感覚がある。
(……慣れてきた、のかな)
一般市民用のN-LUNとは違い、
立法領域プロトコルは思考の解像度そのものを上げてくるため、
最初の頃は頭の中がざわついて仕方がなかった。
だが今は、
そのざわつきの波形すら“仕事の一部”に感じられる。
レギスが静かに告げた。
《市民共有ガイドライン、高密度区画への反映完了。
誤解発生確率は前回比で 68%減少しました。》
「よかった……。
この辺りの文章って、ほんと少し変えるだけで市民の行動が変わっちゃうよね。」
《都市人口が100億を超える規模では、
一文字が“数百万人の行動”を左右します。》
ミラは苦笑する。
「……重いって言ってるようなものだね、それ。」
《事実です。
しかし、あなたはその重さを扱うために選抜された人材です。》
「……そう言われると、頑張るしかなくなるなあ。」
ミラは背伸びをし、椅子に深く座り直した。
視界の下部に、N-LUNが自動生成した“日次フィードバック”が展開される。
《本日の法規範修正件数:7》
《市民行動モデルへの反映率:中》
《心理負荷:軽度》
《集中度:高》
(……心理負荷まで出るの、ほんと余計だと思うんだけど)
思った瞬間、画面下部に小さく
《意図しない思考の転写》
という警告が出てミラは顔を覆った。
「やめて……!
そこまで正確に拾わなくていいから……!」
レギスは相変わらず真面目に返す。
《N-LUNの出力調整は、経験に伴い最適化されます。
過度に気にする必要はありません。》
「気にするよ……!」
とは言いつつ、
声にはさっきよりも少しだけ柔らかさがあった。
ミラは視界に残るウインドウを閉じ、
最後にタスク一覧を確認する。
(……大丈夫。今日は予定どおり終わりそう)
レギスが静かに言う。
《本日の業務は、ここで終了としますか?》
「うん……そうだね。
今日はもう十分働いたよ。」
タスクがすべて閉じられると、
規範センターの光が少し淡くなり、
空間はまるで“眠る前”のような落ち着きを取り戻した。
ミラは席を立ち、静かに息を整える。
その胸の奥にはまだ、
九条監査官の照合で感じた小さな棘がくすぶっていた。
(……気のせいならいいんだけど)
規範センターの出口に向かうと、
レギスが最後の一言を投げた。
《ミラ。
本日のあなたの判断は、都市の安定に確かに寄与しています。》
ミラの足が止まる。
そして、小さく答えた。
「……ありがと。」
それだけ言って、
彼女は規範センターを後にした。
規範センターの扉が静かに閉まると、
ミラは深く息を吐いた。
廊下へ一歩出た瞬間、
視界に広がる“都市の立体構造”が、
胸の奥のざわつきを静かに撫でていく。
この都市は、かつての地面を基準とした構造ではない。
上へ積み重なる三層構造(レイヤーシティ)――
人間の生活とAIが調律した機能を、
物理的な高さで分離した都市設計だ。
ミラがいるのは 居住上層〈アッパーレイヤー〉。
人々が暮らす住宅区画は、すべてこの上層に集約されている。
太陽光がゆるやかに広がり、
風量と湿度は植物が最適に生育するよう自動調整され、
窓の外には立体庭園の緑が層を描いていた。
――ここが“空に近い生活圏”であることを、
ミラは改めて実感する。
中層には、都市の血流ともいえる
循環輸送層〈ミドルレイヤー〉 がある。
遠くの空間には、何本もの光の帯が螺旋を描き、
高速輸送ポッドが静かな軌跡を残していた。
そのさらに下には、
産業下層〈ロアレイヤー〉 が広がっている。
工場、循環水処理、廃棄物分解施設、エネルギー蓄積庫……
生活には欠かせないが、人間の滞在には不向きな機能すべてが、
都市の“影”として沈むように配置されている。
三層が分断されているわけではない。
むしろ都市全体がひとつの生命体のように連結し、
100億を超える人々の生活を滑らかに支えていた。
(……これだけの規模でも、均衡している。)
ミラは手すりに寄りかかり、
層都市のゆるやかな脈動を見下ろした。
レギスの規範が流れ、
オルフェウスが監視し、
クラトスが最適化する。
三権AIの調律が乱れない限り、
この巨大構造体は揺らぎなく動く。
むしろ“揺らぎゼロ”であることこそが都市の前提だった。
(でも……九条監査官の照合。
あの目は……なんだったんだろう?)
ミラの胸には、まだ小さな棘が残っている。
それは不安というより、
都市の表面にかすかな“波”を見つけたような感覚だった。
だが今はただ、
今日も一日を終えたことを静かに受け入れるしかない。
「……帰ろう。」
そう呟き、歩き出す。
層都市の灯りは、
上層から下層へ向かって
ゆるやかに明滅を繰り返していた。
――都市は今日も均衡を維持している。
その均衡が、どれほど精緻な綱の上に乗っているのかも知らぬまま。
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