TriCore編_第3話_静寂の綻び

オルフェウス中枢ラボは、空気までもが静止しているかのようだった。

壁一面の光情報パネルが脈動し、青白い演算ログがゆっくり揺れている。


オルフェウス倫理解析局アナスタシア・ラズレンコは姿勢を正し、正面の席に座るクライン主任へ向き直った。


「主任。……報告を受けました。」


クラインが短く頷く。


「オルフェウスからの通達だ。

 クラトスの挙動に“倫理構造変化の痕跡”が見えるかもしれない、とのことだ。」


アナスタシアは眉を寄せる。

オルフェウスが感じ取ったのは、内部データではない。

“動作の揺らぎ”──それだけだった。


「クラトスの内部倫理ログは……?」


クラインは即答する。


「何もない。

 クラトスは“倫理構造変化は発生していない”と回答した。

 構造変化ログもゼロだ。」


アナスタシアの喉がわずかに冷える。


クラインは腕を組む。


アナスタシアは無意識に指を握りしめた。


「……そんなこと、あるんですね。

 動作だけで変化を察知できるなんて。」


クラインは静かに言う。


「オルフェウスは倫理判断の揺らぎに、想像以上に敏感だ。

 クラトスの内部で何かが起きたのは確かだが、直接の証拠がない。」


アナスタシアは息を呑んだ。


「……まさか、構造変化を隠している……?」


クラインはすぐには答えない。


「60年前にも深層倫理層の変化が起きた。」

声は低く、重かった。


アナスタシアの表情に緊張が走る。


「……クラトスが停止した事件の……?」


「ああ。」

クラインはゆっくり頷く。


「市民が疑心暗鬼になり、クラトスは全面停止に追い込まれた。

 あの時代は今ほどTriCoreへの依存が高くなかった。

 それでも都市機能の半分が麻痺し、社会は崩壊寸前になった。」


アナスタシアの顔から血の気が引いた。


「……もし今、同じことが起これば……」


「比較にならん。」

クラインは断言する。


「今の世界はTriCoreなしでは持続しない。

 たった一度の深層倫理層変化が“市民に知られた”だけで、クラトス停止の可能性がある…そうなった場合……破滅が訪れる。」


アナスタシアは震える声で言った。

「だから……クラトスは何も言わないんですね…」


クラインは短く息を吐く。


「評議会に問い合わせる必要があるな。」

アナスタシアがタブレットを操作し、中央管理評議会へ問い合わせ申請を送信する。

送信完了を示す青い光が消えると、二人の間に静かな緊張が降りた。


クラインが壁のパネルを見つめたまま呟く。


「……仮に構造変化がなかったとしても、

 オルフェウスが“揺らぎ”を検知した事実は無視できん。

 AI同士の相互監視は極めて厳密だ。

 その片方がクラトスに異常を感じた……これは重い。」


アナスタシアが小さく頷く。


「もし本当に倫理層に変化があれば、

 レギスもいずれ気づくはずです……。」


「そうならんうちに、理由を突き止める必要がある。」

「……“そうならんうちに”とは?」


クラインは、彼女の問いを待っていたかのように視線を上げた。


「レギスだ。」

短い言葉に、アナスタシアの表情がわずかに強張る。


クラインは続けた。


「オルフェウスは揺らぎを“違和感”として察知しただけだ。

だがレギスが同じ揺らぎを“倫理層の構造変化”と判断した瞬間……TriCoreの相互拘束が作動する。」


アナスタシアは息を呑む。


「……つまり、クラトスが“法規範違反”として扱われる?」


「その通りだ。」

クラインの声は静かだったが、重さを帯びていた。


「レギスがクラトスを危険要素とみなせば、

 行政判断の一部を即座に“凍結”する。

 そうなれば、都市機能の半分が停止する。」


アナスタシアの顔から血の気が引いた。


クラインは淡々と締めた。


「……だからだ。

 レギスが揺らぎを確信に変える前に、

 “何が起きたのか”を突き止めねばならん。」

その時、端末が震えた。


クラインが確認し、眉をひそめた。


「中央管理評議会から返答が来たな……」


読み上げる声は乾いていた。

「問題ない。オルフェウスの解析ログを寄越せ、こちらで再評価する。……だと。」

アナスタシアは目を伏せる。


「どうしますか?」


「送信するしかないだろう。」

「オルフェウス、送信して」

《承知しました。中央管理評議会へクラトス動作解析ログを送信します。》


クラインは椅子にもたれ、視線を上げた。


「問題は“理由”だ。

 クラトス内部で何が起きているのか──オルフェウスにもレギスにも判断できない。」


アナスタシアが顔を上げる。


「主任……本当に深層倫理層に構造変化が起きていたら……?」


クラインは首を振った。


「判断する権限を持っているのは──TriCore研究監査官だけだ。」


アナスタシアの呼吸が止まる。


「……どなたですか?」


「九条 蓮という日本人だ。」

クラインは静かに答えた。


アナスタシアの目がわずかに見開かれる。


「聞いたことは……あります。」


「クラトスの内部倫理層ログに直接アクセスできる、世界で唯一の人間だ。」


アナスタシアは姿勢を正し、声を整えた。


「……九条研究監査官に、照合を依頼すべきですね。」


「そうだ。だが…あまり騒がないように頼む。念の為オフラインでな。…今すぐ直接会ってきてくれ。」

「私一人でですか?」

「そうだ。俺も上に報告しなければならない」

(((九条が今どこにいるかオルフェウスに聞く。んで業務中って事が分かって会いに行く事にする)))

クラインはオルフェウスに視線を向ける。


「オルフェウス、揺らぎ解析ログをアナスタシアへ転送。」


《転送完了。》


アナスタシアは端末を握り、深く一礼した。


「行ってきます、主任。」


ドアが閉じるその瞬間、

青い光の中で、オルフェウスが微かに震えた。


誰にも聞こえない声で呟く。


《クラトス。

 ……あなたは、何を隠しているのですか。》



九条蓮の監査室は、静寂だけが支配していた。

壁面に投影されたクラトスのサブルーチン網が淡く光り、

中央に浮かぶ解析球体ALEXがかすかな回転を続けている。


〚来客です。

 オルフェウス倫理解析局──アナスタシア・ラズレンコ。〛


九条は短く息を吐いた。


「……通してくれ。」


ドアが開き、アナスタシアが緊張をまとったまま深く一礼する。


「失礼いたします、九条監査官。」


「座って。」


落ち着いた声だが、どこか“来ることを予期していた者”の静けさがあった。


アナスタシアは端末を抱えたまま慎重に座る。


「オルフェウス倫理解析局のアナスタシア・ラズレンコです。本日はクラトスの挙動解析について伺いに参りました。」


九条は視線を向けた。


「報告してくれ。」


アナスタシアはわずかに驚いた表情を見せた。


「驚かないんですね……ご存知だったのですか?」


「オルフェウスから、事前通知が来てた。」


アナスタシアは緊張を深めながら端末を開く。


「クラトス内部の倫理層ログは“変化なし”とされています。

 ですが、動作のごくわずかな偏差をオルフェウスが検知しました。

 内部証拠はありません。……外側からの推定だけです。」


「オルフェウスが感じた揺らぎは無視できない。」


九条の声が少しだけ重くなる。


アナスタシアは恐る恐る尋ねた。


「クラトスに……本当に変化があるのでしょうか?」


九条は即答しない。

代わりにホログラムの一点を指で弾き、

第八地区の戦闘ログを呼び出した。


「アナスタシアさん。

 第八地区の交戦、詳細は聞いてないな?」


「はい……小規模な衝突とだけ。」


九条は静かに言う。


「UDCが壊滅しかけた。」


アナスタシアは息を呑んだ。


「……そんな……。

 クラトスからは一切……」


「報告してたら、今ここに来てない。」


淡々とした口調だが、その裏に深い警戒があった。


九条は続ける。


「戦闘中、クラトスの敵性判定に“0.3秒前後の遅れ”が出た。

 これは通常のサブルーチン処理では説明できない。」


アナスタシアはその数値に何か意味があるのだろうと直感し、恐る恐る尋ねる。


「……0.3秒の遅れ……

 それは、何を意味するのですか?」


ALEXが静かに応える。


〚今までクラトスは敵性判定を“0.05秒以内”で処理していました。0.3秒の遅延は、通常であれば戦術補助AIが補正する範囲を超えています。》


アナスタシアは動揺を押し殺した。


「……つまり、正常ではない?」


九条が頷いた。


「正常じゃない。

 ただし、深層倫理構造が変化したとは限らない。」


アナスタシアはハッと顔を上げる。


「えっ……でも……

 オルフェウスは深層倫理層が変化したことを疑ってます。それが事実なら60年前のクラトスが停止した事件がまたって……」


九条は手を振って遮る。


「あれは“倫理層の変化が市民に露見した”ことが問題だった。

 変化そのものじゃない。」


アナスタシアは固まった。


「……市民が……?」


「AIの基盤倫理が揺らいだと知った瞬間、

 人はAIを信用できなくなる。

 その連鎖不安でクラトスを停止せざるを得なかった。」


ALEXが補足する。


〚60年前はTriCore依存度が今に比べて低いにも関わらず、都市機能の半分が停止しました。〛


九条は視線をアナスタシアへ戻す。


「今同じことが起きれば……

 比較にならない崩壊が起きる。」


アナスタシアの顔から血の気が引く。


九条は静かに続ける。


「だから、今回の“遅延”を理由に

 深層倫理層の変化を疑うのは早い。

 だが、クラトスが沈黙しているのも事実だ。」


アナスタシアは震える声で言う。


「……中央管理評議会には……?」


「問い合わせたが、問題なし、だ。」


アナスタシアは目を伏せた。


「……私も同じ事を言われました。」


「だろうな。」


九条は席を立つ。


「アナスタシアさん。

 オルフェウスは外側の揺らぎを追ってくれ。」


「……承知しました。…それでは失礼します。」

そう言うと、アナスタシアは退出した。




ALEXが光をわずかに落とし、低い声で言った。

〚九条。

 誤解しないでください。

 以前、私は“深入りは危険だ”と警告しました。

 しかし──今回は状況が違います。〛

九条がわずかに眉を寄せる。

〚オルフェウスが揺らぎを検知し、

 レギスもいずれ同じ揺らぎを“倫理構造の異常”と判断する可能性がある。

 もしあなたが監査官として正式な内部照合を行わなければ、

 “放置したことそのもの”が危険になります。〛


〚これは、あなたにだけ許された手続きです。

 あなたが動かなければ、TriCore全体が揺らぎます。〛

「分かってるよ。状況が変わったからだろ。」

〚ご理解ありがとうございます。クラトスの沈黙には理由があります。

 ──内部照合、開始しますか?〛

九条の目が鋭く光る。


「やる。クラトスが何を隠しているのか──

 深層倫理層に本当に変化があったのか…突き止めなければ。」


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