第5話 シーソーゲーム

その月の月末、

愛は仕事で、珍しくトラブルに巻き込まれた。


レセプト――診療報酬明細書の内容が合わない。

数字は合っているはずなのに、

どこか一箇所、辻褄が合わない。


原因が分からないまま、

部署総出で確認作業に入った。


時計を見る余裕もなく、

キーボードを打ち続け、

同じ書類を何度も見返す。


「ここ、もう一回確認して」


誰かの声がして、

愛は黙ってうなずいた。


結局、原因が判明したのは終電が近づいた頃だった。


駅までの道、

足が鉛のように重い。


――もう、何も考えたくない。


玄関の鍵を開け、

靴を脱ぎながら、

愛は小さく声を出した。


「ただいま」


「遅かったね。どうしたの?」


リビングから、静也の声がする。


愛はそのまま、

鞄を置くのも忘れて歩み寄った。


「書類が合わなくて……

 本当に疲れたよぉ」


そう言って、

甘えるように静也に抱きつく。


静也は一瞬、動きを止め、

それから静かに愛の頭を撫でた。


「……連絡なかったから、心配したよ」


声は穏やかだった。

責める調子でも、怒っている様子でもない。


でも、その一言に、

愛の中で何かが弾けた。


「そんな余裕なかったもん!」


思ったより強い声が出る。


「仕事中だったし、

 それどころじゃなかったんだよ」


静也の胸に顔を埋めたまま、

愛は続ける。


「今日は本当に大変だったんだから」


静也は、何も言わなかった。


ただ、

撫でていた手が、

ほんの少しだけ止まった。


そのことに、

愛は気づかなかった。


愛の頭の中には、

自分の疲労と、

自分の大変さしかなかった。


仕事中、

静也のことを考える余裕など、

一度もなかった。


――それは、仕方のないことだ。


愛はそう思っていた。


恋人だからといって、

常に相手のことを優先できるわけじゃない。

今日は、自分の番だった。


そう思いながら、

愛は静也の腕の中で、

深く息を吐いた。


静也は、

抱き返しながら、

天井を見つめていた。


自分が、

昨日、連絡をしなかったこと。


そして今日、

連絡をしなかったのが、

愛だったこと。


その二つが、

同じ重さなのかどうかを、

静也は、静かに考えていた。


答えは、まだ出なかった。

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