第2話 シーソーゲーム

愛は勤務先の病院に出勤した。


午前中の外来が始まる前、

カウンター越しに同僚の明日香が声をかけてくる。


「愛ちゃん、同棲始めたんだって?

 いいなー! 羨ましい! ラブラブじゃん!」


少し大きめの声。

周囲に聞こえるのを意識している調子だった。


「そんなことないよぉ」


愛は笑いながら、首を横に振る。

決して否定はしない。

ただ、控えめに見せる癖がついているだけだ。


事実、浮かれていた。


同棲。

一緒に暮らすということ。

それは、結婚の一歩手前だ。


静也は安定した仕事に就いているし、

性格も穏やかで、問題を起こすタイプじゃない。

親にも紹介済みで、

あとは流れに乗るだけ――そう思っていた。


これで終わりだ。


愛の胸の奥で、

長く続いていた何かが、静かに幕を下ろす。


婚活。

年齢。

周囲の結婚報告。

焦りと比較と、意味のない自己肯定。


全部、終わった。


「いいなぁ……私なんて全然だよ。

 いい人いないしさ」


明日香が笑いながら言う。


愛は書類を整えながら、

「そうなんだ」と相槌を打つ。


その瞬間、

ほんの一瞬だけ、

心のどこかで線を引いている自分に気づいた。


――でも、それは悪意じゃない。


ただ、

同じ場所にはいない

という感覚。


もう、競争相手じゃない。

同じスタートラインに立っていない。


愛はそれを

優越感だとは思わなかった。

事実確認のようなものだと思っていた。


「でもさ、愛ちゃんは運いいよね。

 ちゃんとした彼氏捕まえて」


捕まえた、という言葉が

少しだけ引っかかる。


でも、訂正はしない。


「たまたまだよ」


そう言って、

愛はモニターに視線を戻した。


胸の奥で、

確かな安堵が広がっていく。


――もう、選ばれる側じゃない。


その安心感が、

どんな重さを生むのかを、

この時の愛は、まだ知らなかった。

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