シーソーゲーム

余白

第1話 シーソーゲーム

「おはよう」

「おはよう」


いつもの朝だった。


影山 愛(かげやま あい)、二十八歳。

仕事は医療事務。

朝は弱くない。支度は早い方だし、生活リズムも乱れにくい。

自分では、わりと“ちゃんとしている”人間だと思っている。


穂村 静也(ほむら しずや)、三十一歳。

仕事はシステムエンジニア。

無口で、感情を表に出さない。怒っているところを見たことは一度もなかった。


交際歴は二年。

そして三年目の今年の春、同棲を始めた。


ワンルームでは狭くて、二人で住むには無理がある。

そう言ったのは愛だった。

静也は一度うなずいただけで、反対はしなかった。


結婚に向けて、順風満帆。

少なくとも、愛はそう信じていた。


キッチンでコーヒーを淹れながら、愛は背中越しに静也を見る。

静也はいつも通り、スマートフォンを確認しながらパンをかじっている。


「今日、飲み会あるって言ってたよね?」


「うん。会社の」


「何時くらい?」


「遅くなると思う」


それだけの会話。

愛はそれで十分だと思っていた。


以前なら、

誰と、どこで、何時に帰るか、

静也は何も聞かれなくても話していた。


――別に、聞いてるわけじゃない。

愛は心の中でそう言い訳をする。


ただ、知っていた方が安心なだけ。

恋人なんだから、普通のことだ。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


ドアが閉まる音を聞きながら、

愛はカップを洗い、シンクの水を止めた。


その日も、

何かが壊れているなんて、思いもしなかった。


ただ、

少しだけ静かすぎる朝だった。

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