第1話 雨を纏う

 時間とともに、雨脚は勢いを増すばかりだ。


 ​後ろから迫ってきた車が、無遠慮に雨水を跳ね上げながら僕を追い越していく。おかげでズボンの裾はすっかり重くなり、靴の中には冷たい水が侵入してきた。


 ​最悪だ、とは思う。

 けれど怒る気力も湧いてこない。


 僕はただ無言で歩調を早め、逃げ込むように下宿先のアパートへと急ぐ。


 ​さっさと帰って、シャワーを浴びよう。

 そして、きれいな服に着替えたら珈琲を淹れよう。


 ​珈琲は、僕の数少ない趣味のようなものだ。深く焙煎された豆を無心になってゴリゴリとミルで挽き、丁寧にドリップする。


 フィルターを通してポタポタと落ちる黒い雫。その時立ち昇る香ばしい薫りだけが、空虚な僕の心を埋めてくれるような気がして。


 ​余計なことを考えなくても済む、唯一、心穏やかに過ごせる時間。


 ​気が逸る。少しだけショートカットをしようと、近所の公園を突っ切ろうとした時──


 ​僕は思わず息を呑んだ。


 雨の降りしきる​視界の中央で、濡れた銀糸が風に揺れる。


 公園の一角、誰もいないベンチのそばで、一人の少女が傘も差さずに空を見上げて佇んでいた。


 ​その光景を、なんと喩えるのが相応しいだろうか。


 ​一筋だけ赤のメッシュの入った銀色の髪がやけに情熱的で、けれど空を見上げる瞳に宿るのは、冷たい硝子のような静寂。


 雨すらも、彼女を彩る絵の具として降っているような錯覚を受ける。


 ​まるで一枚の絵画のように、彼女の周りだけが世界から切り取られている。


 ​もし僕がその絵画にタイトルを付けるとするならば──


『雨を纏う』


 ​そんな陳腐な言葉しか浮かばないほど、この光景は僕の網膜に強烈に焼き付いた。


 気が付けば、僕は無意識に彼女に歩み寄り、無言で自分の傘を差し出していた。


 ​ゆっくりと僕に顔を向けた彼女は、あからさまに不審者を見る目を向けてきた。その眼光は雨に濡れた野良猫のように鋭くて、一瞬たじろいでしまう。


 ​けれど、僕は一度差し出した手を引っ込めることができなかった。


「……風邪、引きますよ」


 ​自分でも驚くほど平坦な声が出た。


​「この傘、使ってください。僕の家、すぐ近くなんで。いらなければ捨ててもらって構わないので」


 ​なぜ自分がこんな行動に出たのか、理解できない。


 見ず知らずの女の子に声をかけるなんてことは、普段の僕ならば絶対にしない。なのに今は、考えるよりも前に身体が動いてしまったのだ。


 近くで見れば、勝ち気ながら整った顔立ち。耳には、いくつものピアスが鈍く輝く。これまでの人生で、関わったことのない人種のように思える。


 不審者を見るような目は、いつしか僕を睨みつけるものに変わっていた。


 これは、下手をすれば通報案件かもしれない。


 危機を悟った僕は、無理やりに傘を彼女に押し付け、その脇を通り過ぎた。


 すぐに僕は、濡れ鼠と化す。ズボンの裾や靴の中の不快感を忘れてしまうほどのずぶ濡れ具合だ。急ぐ意味を失った僕は、まるで拗ねた子供のように水溜りを蹴飛ばしながら歩いていく。


 重く湿った音が、断続的に足元から響く。


 その単調なリズムに、ノイズが混ざっていることに気付いたのは、ようやくアパートが見えてきた頃だった。


 もう一つ、水溜りを踏み抜く足音が背後から聞こえる。つかず離れず、一定の距離を保ちながら、僕の後についてくる。


 振り返ると、先ほどの少女が僕の一メートルくらい後方で足を止めた。やはり、射殺さんばかりの鋭い目突きで僕を睨みながら。


 ぱちりと、目が合った。


 透き通るような深い黒の瞳。その奥で、なにかが燃えるように揺らいでいるように感じた。それはたぶん、僕の中にはないなにかだった。


 圧倒される。吸い込まれそうになる。


 なのに、目を逸らせない。


「……えっと、なにか?」


 恐る恐る尋ねると、彼女は濡れた髪を掻き上げながら、口を開いた。


「……お前、アホだろ」


 面と向かって、初対面の人にアホ呼ばわりされたのは、生まれてこの方初めてのことだった。せっかく傘を貸してあげたのに、この言い草はどういう了見だろうか。


 僕はただ、呆気にとられていた。


「ったく……お人好しなのはわかるが、こんなずぶ濡れに傘渡したって意味ねぇだろ。心配するくらいなら、家まで連れてってタオルくらい貸せや。それができねぇなら、最初からこんな真似すんじゃねぇよ」


 驚くほどに乱暴な言い分だ。

 けれど、筋は通っている。


 確かに、今更傘を差したところで事態はあまり変わらないかもしれない。風邪を引く心配をするのであれば、僕の行動はあまりにも足りていないものが多すぎる。


 妙に、納得させられた。膝を打つという言葉は、まさに今使うために存在しているのかもしれない。


 そのせいか、僕はまた、普段とは違う行動を取ってしまう。


「なら……うち、来ます?」


 冷静に考えれば、これこそ通報案件だと思うところだが、この時の僕の思考は普通ではなかったのだろう。彼女もまた、僕の返答が予想外だったのか、大きく目を見開いた。


「……まじで?」


「冗談でこんなこと言いませんけど……」


「そ、そうか……うん、そうだよな。じゃあ……」


「……はい、こっちです」


 なんとも、不思議な空気が流れた。僕はまた歩き出し、彼女は少しだけ距離を詰め、半歩後ろに続く。


 雨音が支配する道に、二つの足音が重なる。


 会話はない。背中に、彼女の視線を感じる。まるで、捨て猫が新しい飼い主の様子を窺うような視線を。


 アパートへは、すぐにたどり着いた。住んでいるのは、ほとんどが僕と同じ大学生。家賃が安い代わりに、セキュリティはそれほど高くない。


 オートロックもないエントランスの先の階段を上がり、二階の角部屋の前で足を止めた。


 ポケットから鍵を取り出し、ドアに差し込み回す。カチャリと、無機質な音が響いた。


 本来であれば、この音は安息への合図のはずだった。このドアをくぐれば、そこには誰にも邪魔されない静寂があり、空虚な心を偽り隠す必要のない空間がある。


 けれど今は、背後にノイズを伴っている。


 ドアを開け、僕は振り返ることなく靴を脱ぎ、ぐっしょりと湿った靴下のまま上がり框に立った。


「……どうぞ」


 短く促すと、控えめに気配が動く。戸惑いがちな足取りで、彼女のスニーカーが玄関の土間を踏んだ。


 途端に、狭い玄関に湿った雨の匂いに微かな甘い香水のような香りが入り混じる。


「あー、その……なんだ──お邪魔、します」


 どうやら彼女も、最低限の礼儀というものは持ち合わせているらしい。


 僕の静かな生活に、強烈な異物が混入した瞬間だった。


 それが吉と出るか凶と出るか。今の僕には、さっぱり判断がつかない。ただ一つだけ確かなのは、今日という日が、僕の人生における明確な特異点、もしくはエラーとなったということだけだった。


 すっかり借りてきた猫のようになってしまった彼女の後ろで、ゆっくりとドアが閉まった。


 僕たち以外を、世界から締め出すように。

 外の世界を遮断するように。

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冷たい雨が止むまでは、珈琲の薫りを。 あすれい @resty

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