冷たい雨が止むまでは、珈琲の薫りを。
あすれい
プロローグ 空虚な器
見上げれば、分厚い雲に覆われた鉛色の空が、どこまでも続いていた。
六月。
季節は確実に、鬱屈とした梅雨に向かっている。
ビニール傘を叩く、乾いた雨音。
濡れたアスファルトから立ち昇る匂い。
頬を撫でる湿っぽい空気。
それらは僕に不快感を与えるというより、世界からの隔絶感を強く意識させた。
まるで、深い水槽の底に沈められたような。あるいは、目の前に半透明の膜が張られているような。
僕は一人、彩度の低い家路を歩きながら、小さくため息をこぼす。
こういう時にふと思い出すのは、数ヶ月前の出来事だ。あの日も確か、今日と同じように冷たい雨が降っていた。
人生で必ず、数度は訪れるであろう別れの時。
桜の開花には少し早く、まだ寒風の吹き付ける三月の上旬。その日は、高校の卒業式だった。新たな旅立ちの日にはあまり相応しくない、土砂降りの雨に見舞われた。
僕たち卒業生は、それぞれブレザーの胸元に花飾りを身に着け、体育館へと入場した。
開式が宣言され、校長の式辞から始まり、卒業証書の授与、校歌を斉唱して、来賓からの祝辞、在校生からの送辞、そして卒業生代表の答辞。
すっかり形骸化された、厳かな式典。周囲からは、すすり泣くような声がいくつも聞こえていた。
おそらく僕は、この時にはなんとなく気付いていたのだ。気付いていながら、気付かないふりをして、周囲に合わせるように、僕は小さく鼻をすすった。
それがたぶん、最適な行動のような気がして。
三年間通った高校からの卒業だ。
親しい友人との別れもあるだろう。
思い出が溢れ出したりもするのだろう。
そういう時、人は寂しさを感じるものだ。寂しさは涙となり、頬を伝う。その感情のプロセスは理解している。いや、実際には理解しているつもりになっているだけなのかもしれない。
片鱗は、もっと以前から顔を出していた。
僕の通っていた高校は進学校。皆一様に大学進学を目指す。三年生も後半になれば、教室には常にヒリついた空気が漂っていた。
授業の合間の休み時間には、参考書を開きながらペンを走らせる者、一つでも多く英単語を覚えようとする者、それぞれが目標のために必死で勉強していた。
僕もそれを真似して参考書を開いてみたが、目が文字の上を滑るばかりで、あまり捗らなかった。別に僕の頭が悪いというわけじゃない。むしろ、成績は悪くない方だった。
ただ、いまいち必死になりきれなかったのだ。
式典が終わり、教室に戻ると、いよいよ僕は現実から目を背けられなくなった。担任が涙ながらに僕たちの未来を激励し、その涙はクラスメイト達に飛び火し、加速度的に広がっていく。
なのに、僕の瞳には一雫の涙もにじまなかった。悲しくないわけではない。寂しくないわけでもない。けれど、胸にこみ上げてくるものがない。
僕にだって、数人の友人くらいはいたけれど。彼らとは、卒業と進学を機に離れ離れになることもわかっていたけれど。
どうやら僕には、涙を流すほどの熱量を生み出す機能というものが搭載されていないらしい。
ショックだった。誰も彼もが涙する中で、僕の頬だけが濡れていない。人としてあるべきものがない。
お前は欠陥品なのだと、そう突きつけられているような気がした。
精巧に作られた紛い物。
空虚で哀れな器。
それが僕なのだと。
解散となった後、友人達との別れを済ませ、僕は一人で教室を抜け出した。最後に、もう一度だけ母校を見て回るために。
一年生の時の教室、二年生を過ごした教室。図書室に化学室、調理室なんかの特別教室。
そのどれもに、思い出という名の記憶は存在している。なのに、心はあまり動かなかった。
今日を境に、もうここに来ることはなくなるのだと、ただそう認識しただけで。
それから間もなく、僕は親元を離れ大学へと進学した。
環境が変われば、僕の中でもなにかが変わるかもしれない。そんな淡い期待は、慣れない一人暮らしや大学の講義、週に二度のバイトの日々に溶けて消えていった。
僕は結局、どこへ行ってなにをしようとも、空っぽのままなのだ。
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