第3話

収穫を分け合うはずの祭りの日。

村の広場には歌と笑いが満ちていた。

共同蔵の前では座長が穀を分け、子どもたちは踊り、老人は祈りを捧げていた。

だが、その蔵の影で、一人の男が穀を盗み出していた。

男の家は、かつて小さな争いで“沈黙の月”を与えられた。

その月が明けても、誰も彼らに声をかけなかった。

歌の輪にも、祈りの輪にも入れなかった。

畑を手伝う者もなく、取引も断られ、

男の家は静かに飢えていった。

「……もう、これしか道がない」

男が震える手で袋を抱えた瞬間、

目撃した者の叫びが広場に響いた。

「盗みだ! 勇者の誓いを破った者だ!」

祭りの歌は止まり、笑い声は消えた。

群衆は一斉に男へと押し寄せた。

「沈黙の月を与えろ!」

「誓いを裏切る者に慈悲はない!」

誰かが男の腕を掴み、誰かが背を押し倒し、

石がひとつ、またひとつ飛んだ。

男は地面に伏し、袋を抱えたまま震えていた。

その袋の中には、家族が一日だけ生き延びるための穀が入っていた

魔王はその光景を黙って見ていた。

勇者の姿のまま、群衆の熱狂の外側に立っていた。


――……誓いは人を守るためのものだったはずだ


胸の奥で、灰が微かに軋む


――人はどう生きるべきか。


勇者の最後の問いが、静かに蘇る。

群衆は男を引き立て、共同蔵の前に跪かせた。

座長たちが集まり、裁きの言葉を告げようとした。

「誓いを破った者には、沈黙の月を――」


瞬間、魔王の視線が座長に向けられた。

声は発さない。ただ、見つめただけだった。

その視線は怒りでも威圧でもなかった。

ただ、誓いの始まりを知る者だけが持つ、静かな重さだった。

座長は言葉を詰まらせた。

群衆のざわめきが揺れた。

沈黙が広場を覆った。

魔王はゆっくりと目を伏せた。

介入はしない。だが、見過ごすこともできなかった。


――……お前なら、どうした


勇者の問いは答えを持たないまま、

魔王の胸の奥で静かに燃え続けていた。

沈黙の中で、座長たちは互いに目を合わせる

誰もが分かっていた。

この男を再び“沈黙の月”に落とせば、

その家はもう戻れない。

祈りの列にも、祭りの火にも加われず、

沈黙が一月の罰ではなく、一生の距離になる。

同じ井戸で水を汲んでも、誰も目を合わせない。

同じ畑道を歩いても、誰も声をかけない。

祭りの太鼓が鳴っても、あの家の戸は叩かれない。

村の中にいるのに、村の外側に立たされる。

それは怒りでも拒絶でもない、

追放ではなく、静かな忘却


だが、誓いを曲げることもできない。

「……誓いは、守られねばならぬ」

森座長が低く呟いた。

「だが、誓いを守るために人を失ってはならぬ」

水座長が続ける。

分け座長は男の抱えた袋を見つめた。

その中身は、家族が一日だけ生き延びるための穀だった。

静座長がゆっくりと前に出て

「沈黙の月は、争いを鎮めるためのもの。

 飢えた者を沈黙させるためのものではない」

群衆がざわめいた。

誓いを否定せず

だが、誓いの“意味”を問い直す言葉

静座長は男に向き直り

「罪は罪だ。だが、沈黙の月は与えない。

 代わりに――“見守りの月”を与える」

「見守り……?」

誰かが呟いた。

「この家には、ひと月の間見守り役をつける。

 歌は禁じない。祈りも禁じない。

 ただ、誓いを忘れぬよう、共に過ごす者を置く」

それは罰ではなく、孤立を防ぐための“手当て”だった。

群衆は戸惑い、ざわめき、やがて静かになった。

誓いは守られたまま、運用だけが変わった。


魔王はその様子を見つめていた。

人間は弱く、互いに寄り添うことで平穏を作る。

だが同時に、欲に駆られ、群れの怒りで一人を潰す。

その醜さは、魔族の争いと何も変わらなかった。

もしあのままの男に、一月の孤独を与えていたら、

その目には憎しみが宿り、罰が終われば再び争いが芽吹くだろう。

魔王は胸の奥で、灰の記憶を思い出した。

勇者は未来を守るために命を捨てた。

だが、その未来は笑いと涙、優しさと醜さが混じり合う世界だった。

魔王は祭りで焚かれた炎を見つめ、灰の重みを胸に抱いた。


――……俺は、どうするべきだった?。


勇者の問いは答えを持たないまま、

魔王の胸の奥で静かに燃え続けていた。


広場に、ようやく歌が戻り始める

魔王は群衆に背を向け、静かに歩き出した。

勇者の問いはまだ答えを持たない。

だが、ほんのわずかに――

その答えへ近づいたような気がした。


山間の別の村では、収穫祭の朝に奇妙な出来事が起きた。

祭りの中心に立つはずの「実りの柱」が折れていたのだ。

夜のうちに風が吹いたのか、誰かがぶつかったのか、

理由は分からなかった。

だが村人たちはざわめいた。

「柱が折れるのは、不吉の兆しだ」

「誓いが乱れたのではないか」

誰も責められないはずの出来事に、

疑いと不安が静かに広がっていった。


森座長は折れた柱を見つめ、眉を寄せた。

この村で柱が折れたことなど、一度もなかった。

風のせいか、獣のせいか、それとも誓いの流れが乱れたのか。

理由の見えない出来事ほど、座長を不安にさせるものはなかった。

水座長は井戸の水面を覗き込み、祈りを捧げた。

水は澄んでいた。

だが、澄んでいるからこそ、祈らずにはいられなかった。

祈る先は勇者そのものではない。

勇者が残した“流れ”

――誓いの始まりに向けて、静かに手を合わせた。

分け座長は穀の山を前に、手を止めた。

誓いどおりに分けるべきか、それとも備えを残すべきか。

柱が折れた以上、どちらが正しいのか分からず、

誓いと備えのあいだで、指先が揺れた。

静座長は沈黙を守りながら、村人たちのざわめきを聞いていた。

声の高さ、息の乱れ、足音の速さ――

そのどれもが、何が起きたのかを語っていた。

魔王は遠くの木陰から、その光景を見守っていて


――……結びが強すぎれば、風の音さえ争いの兆しになる


その夜、魔王は祭壇に立たなかった。

代わりに、座長たちの前に一枚の札が置かれていた。

誰も運ぶ姿を見ていない。

風が運んだのか、祈りが導いたのか、

ただそこに“あった”。


札には一言――「解き札」。


座長たちは互いに目を合わせた。

魔王が姿を見せずに札だけを送るのは、

誓いの流れが乱れた時だけだった。


結びが強すぎる時、解いて良い札。


座長たちは迷いながらも、それを柱の跡に掲げた。

村人たちは見上げるたびに知った。

結びも解きも、勇者の名の下で許されるのだと。

翌日、村では新しい二つの結びが生まれた。


「忘れの結び」――折れた柱を責めず、折れたまま尊ぶ。

「見つけの結び」――折れた跡に新しい柱を立て、皆で支える。


人々は「忘れの結び」の前で静かに頭を垂れた。

折れた柱の木片を拾い、結びの前にそっと置く。

それは誰に教わったわけでもない、村に根づいた祈りの形だった。

「見つけの結び」の前では、大人たちが数人で柱を支えていた。

折れた柱の代わりに立てる新しい柱は大きく、重い。

だが、誰も嫌な顔をしなかった。

「そっち持てるか」

「もう少し右だ」

「よし、いっせーの!」

掛け声と笑い声が混ざり、土の上に力が集まっていく。

わきあいあいとしながらも、動きは揃っていた。

柱が少しずつ起き上がるたびに、周りから小さな歓声が上がった。

柱が最後の一押しでまっすぐに起き上がった瞬間、

広場に小さな歓声が弾けた。

「立った……!」

「よし、動くなよ!」

縄を握っていた大人たちが息をつき、

土を踏み固めていた者たちが笑い合った。

誰もが汗にまみれていたが、その顔は明るかった。

折れた柱の痛みはまだ残っている。

だが、新しい柱が立ったことで、

村の空気にようやく“前へ進む”風が吹いた。

柱が立つと、子どもたちはすぐに縄の端を拾い上げた。

「見つけの結び、こっちだよ!」

「じゃあ、忘れの結びはここ!」

小さな手で縄を結び、解き、また結ぶ。

結び目はゆるく、形もばらばらだったが、

子どもたちは誇らしげだった。

「ほら、ちゃんと結べた!」

「じゃあ、これを守るんだよ!」

遊びは遊びのまま、しかし確かに“誓いの形”を真似ていた。

大人たちはその様子を見て、そっと笑った。

結びが、次の世代へ自然に受け継がれていくのを感じた。

その光景は、祭りの一部のようだった。

その日から、収穫祭は“柱を立て直す祭り”へと変わった。

それは「手の市」と呼ばれ、村の誓いを新しい形で受け継いだ。


魔王は遠くからその光景を見つめた。

人間は騒がしく、脆く、しかし手際が良い。

灰になった勇者が望んだ「少しの間」は、

もう「世代の幅」に伸びていた。

大人たちの笑い声。

子どもたちの結び遊び。

新しい柱の影が、夕陽に長く伸びていく。


――……人間は、こうして立ち直るのか


魔王は胸の奥で呟いた。

灰の記憶が胸の奥で微かに疼いた。

勇者が守ろうとした“少しの間”は、

いつの間にか、世代を越える幅へと広がっていた。

魔王は目を伏せた。

この世界は、勇者のものでも、魔王のものでもない。

結びを作り、結びを解きながら歩く、

人間たちのものなのかもしれない。

そう思うと、胸の奥の灰が、

ほんのわずかに温かくなった。


春、川面に薄い靄が漂っていた。

子どもたちは橋の上で「手の勇者ごっこ」を続けていた。

片方が座長役、もう片方が解き札役。

縄を結び、解き、また結びながら、笑い声が風に溶けていく。

「ねえ、本当の勇者は、どこにいるの?」

魔王はその問いを、もう恐れなかった。

勇者は灰だ。灰は歌だ。歌は手だ。手は人だ。人は世界だ。

魔王は勇者の姿のまま、胸の奥で静かに息を整えた。

最後の言葉を残す準備は、もう始まっている。

偽りの幕を、自らの手で下ろすために。

だが、まだ早い。

結びは解けるが、解きは結びを失わない。

「少しの間」は続いている。

魔王はもう一度だけ、新しい結びを世界に渡す。

それは人間の怒りを和らげ、憎しみを祈りに変えるために。

――だが、まだ早い

子どもたちが縄を振り回しながら走り出す

「見つけの結び! こっちだよ!」

「座長、早く来て!」

魔王は気づけば、木陰から一歩踏み出していた。

案内するつもりなどなかったが、

ただ、子どもたちの声が、灰の奥に触れる

「おいで。少し歩こう」

魔王の声は、春の陽の様に柔らかかった。

その響きに、子どもたちは迷わず駆け寄っていく。


遊びは続いたまま、魔王の後ろをついていく。

川沿いには、新しい水車が回っていた。

冬の間に大人たちが作ったものだ。

水の力で石臼が回り、粉が袋に落ちていく。

「これ、勇者が作ったの?」

「君たちの村の大人たちが作ったんだよ」

と魔王は答えた。

「そして、いつかは君たちの手で回すようになる」

静かに言う

「でも、人が力を合わせるとき、勇者の歌が流れる」

子どもたちは縄を回しながら、水車の動きを真似した。

次に、広がった田畑が見えてきた。

去年より畝が増え、土は柔らかく耕されている。

若い芽が風に揺れ、春の匂いを放っていた。

「ここも、みんなで作ったの?」

「そうだ。結びを覚えた人たちが、手を貸し合った」

丘の向こうでは、家畜小屋から小さな鳴き声が聞こえた。

子ヤギが生まれたばかりで、足を震わせながら立ち上がっていた。

「メー」

と、元気よく声を上げる

子どもたちは歓声を上げ、縄を子ヤギに見せて笑いあった。

「ほら、見つけの結びだよ! 強くなるやつ!」

「こっちは忘れの結び! 痛いの飛んでけー!」

子ヤギはきょとんとした目で縄を見つめ、

子どもたちはその反応にまた笑った。

「ねえ、この子も座長になれるかな?」

「むりだよ、ヤギだもん! でも結びは覚えられるかも!」

笑い声が小屋の屋根に跳ね返り、

春の空気に溶けていった。

魔王はその後ろ姿を見つめる

人間は騒がしく、脆く、しかし手際が良い。

灰になった勇者が望んだ「少しの間」は、

こうして形を変えながら続いていく。


――……まだだ。まだ、この姿で見届けることがある


魔王はそっと目を伏せた。

偽りの幕を下ろす日は近い。

だが今日だけは、子どもたちの笑い声の中にいたかった。

春の靄が、ゆっくりと晴れていく。


灰の祭りが繰り返されるたび、人々は勇者の名を呼び、祈りを捧げた。

魔王は勇者の姿を纏い、秩序を見守り続けた。

だが胸の奥では、嘘が真実に変わり続ける重さに耐えかねていた。

ある夜、村の広場で子どもが問いかけた。

「勇者様、本当はどこにいるの?」

何時かの時と同じ問いだった。

だが、声の高さも、震えも、瞳の色も違う。

問いだけが、季節を越えて魔王の胸を刺した。

魔王は答えられなかった。

胸の奥で、嘘が真実に変わり続ける重さが軋んだ。

だが別の子がは笑いながら言った。

「勇者様は、みんなの手の中にいるんだよ。」

その言葉は群衆に広がり、祈りの形を変えていった。

勇者は顔ではなく、手の働きの名となった。

魔王の仮面は軽くなり、同時に外せなくなった。


春、苗分けの日。

村人たちは畑に集まり、苗を均等に分けるはずだった。

だが、ある家の苗が明らかに少なかった。

「誰かが夜に抜いたのではないか」

「いや、風で飛んだのだろう」

ざわめきが広がり、視線が鋭くなる。

結びが強すぎると、風の音さえ疑いに変わる。

そのとき、静座長が手を上げた。

「解き札を」

札が掲げられると、ざわめきが静まり、

人々は苗を持ち寄って山を作った。

「忘れの結び」と「見つけの結び」が並び、

苗は再び均等に分けられた。


魔王は遠くからその光景を見ていた。

――……人間は、欠けたものを埋めるために集まるのか


魔王は焚き火の輪に加わった。

そこはかつて勇者が座っていた場所に近かったが、

魔王はそれを意識していなかった。

ただ、胸の奥の灰が、そこへ導いた。

歌は拙く、調子も外れていた。

だが、その拙さこそが人間の証であり、勇者が命を賭けて残そうとしたものだった。

「……人間は要るのか。要らぬのか。

お前が見たかった答えは、ここにあるのかもしれぬ。」

焚き火の火が揺れ、魔王の影が長く伸びた。

「だが……笑い声の夜もあれば、石を投げる昼もある。

その揺れを抱えたまま、同じ地を歩けるのか。」

魔王は火に手をかざし、ゆっくりと目を伏せた。


「勇者よ、俺はまだ仮面を外せない。

だが、外す日が近づいている。

その日、世界は真実を知るだろう。」

焚き火の炎が揺れ、歌声が夜空に溶けていった。

魔王は勇者の姿を纏ったまま、最後の言葉を準備し始めた。

偽りの幕を、自らの手で下ろすために。


八百年の時が流れた。

勇者の顔を知る者はとうに絶え、声も歌も幾度も形を変えた。

だが「勇者の段取り」は生き続け、祭りとしきたりの中に息づいていた。

村々では季節ごとに結び札を編み、家々の梁を彩った。


春には、芽吹きの結びが家々の梁に揺れた。

雪解けの水が畑を潤し、子どもたちは

「見つけの結び」を真似して苗を植えた。

風はやわらかく、土は甘い匂いを放っていた。

夏には、涼しの結びが川辺に吊るされ、

水車の音が村に響いた。

夕立のあと、濡れた石畳の上で

若者たちが結び比べをして笑い合った。

夜には虫の声が祈りのように続いた。


秋には、分け穂の結びが穂先に結ばれた。

黄金の波が丘を覆い、

収穫のたびに「忘れの結び」が静かに置かれた。

失われたものを悼み、見つけたものを分け合う季節。

焚き火の煙は高く、空は澄んでいた。


冬には、静けさの結びが戸口に吊るされた。

囲いの夜には家畜の息が白く揺れ、

村人たちは寄り添って歌を紡いだ。

雪明かりの下で、子どもたちは

「解き札ごっこ」をして遊んだ。


そして火の結びも加わり、五つの誓いは共同体の柱となった。

四季は巡り、結びは増え、

人々の暮らしは勇者の名を離れながらも、

確かにその願いを受け継いでいた。

祭りの日、人々は広場に集い、歌を口ずさんだ。

「勇者の誓いを守り、森を敬い、水を清め、火を囲み、静けさを保つ。」

その歌は子どもたちの遊び歌であり、老人の祈りでもあった。

祭りの中心には「誓い守りの座」が立った。

森座長、水座長、分け座長、静座長――四人の座長が輪を組み、誓いを唱える。

人々はその姿を「勇者の声」と信じ、涙を流し、祈りを捧げた。

魔王はその光景を遠くから見守っていた。

勇者の姿をまとうことなく、ただ影の中で。


囲いの夜の歌が、ゆっくりと再び始まった。

その輪の端に、魔族の影が静かに加わった。

雪解けの水が床に落ち、小さな水たまりを作る。

その光景は、村の誰もが知らぬうちに、

“境界がほどける瞬間”となっていた。


四季は巡り、結びは増えた。

だが、結びが増えるたびに、村の外から訪れる影もまた増えていった。

最初に現れたのは、森の奥から来た魔族の若者だった。

彼は言葉を持たず、ただ折れた枝を拾い、

不器用に「見つけの結び」を真似た。

村人たちは戸惑ったが、座長たちは静かに頷いた。

結びは誰のものでもなく、流れのものだったからだ。

やがて、夏の川浚いには魔族の力が加わり、

秋の分け穂には魔族の子どもが混じって穂を結んだ。

冬の囲いの夜には、吹雪の中で迷った家畜を

魔族が見つけて戻したこともあった。

結びは境界を越え、祈りは種族を選ばなくなった。


ある日、畑の端で魔族の子が座り込んでいた。

苗の植え方がわからず、土を前に困っていたのだ。

「こうだよ、見つけの結びの形で植えるの」

人間の子が手を取って教えると、

魔族の子は驚いたように目を瞬かせた。

「……ありがとう」

声は小さく、しかし確かに震えていた。

その日から、畑の端には

人間と魔族の小さな影が並ぶようになった。

「そこ、土をかけすぎだよ。苗が苦しくなる」

人間の子が笑いながら言うと、

魔族の子は真剣な顔で手を止めた。

「……こうか?」

「うん、上手いよ。覚えるの早いね」

魔族の子は少しだけ照れたようにうつむき、

土をそっと撫でた。

「お前の植え方、丁寧でいい」

人間の子が言うと、

魔族の子は耳の先を赤くしながら答えた。

「森では、芽を踏むと叱られる。

だから……大事に触る癖がある」

「いい癖だよ。畑でも同じだよ」

二人は並んで苗を植え続けた。

風が吹くたびに、影が寄り添うように揺れた。


とある夕立のあと、濡れた石畳の上で

若者たちが結び比べをしていた。

そこへ魔族の青年が近づき、

「……混ざってもいいか」とぎこちなく言った。

最初は静まり返ったが、

水座長が笑って縄を差し出した。

「結びは誰のものでもない。やってみなさい」

魔族の青年は不器用に結び、

人間の若者たちはその拙さに笑った。

だが、その笑いは嘲りではなく、

仲間を迎えるときの笑いだった。

「ちょっと貸してみろよ。ほら、ここを指で押さえて……」

人間の若者が手を伸ばし、魔族の手元をそっと支えた。

「こうか?」

「そうそう。で、こっちを引くと、形が綺麗になる」

魔族の青年は真剣な顔で結び直し、

結び目が整うと、少しだけ胸を張った。

「……できた」

「おお、さっきよりずっといいじゃないか!」

別の若者が笑いながら言った。

「次は俺の番だ。魔族の力で結んだら、ほどけなくなるかもな」

魔族の青年も照れたように笑った。

その笑いは、川の音に溶けていった。


収穫の夜。

焚き火の前に、魔族の老人がひとつの穂を置いた。

「これは……誰のための忘れの結びですか」

分け座長が尋ねると、老人は静かに答えた。

「昔、争いで失った仲間のためだ。

人間に奪われた命もある。だが……もう、憎むのは疲れた未来さえも、憎しみの手に渡したくはない。」

その言葉に、広場は深い沈黙に包まれた。

そして誰かがそっと、隣に“見つけの結び”を置いた。


囲いの夜、吹雪の中で子牛が迷った。

村人たちは探しに出られず、戸口で震えていた。

そこへ魔族の影が雪をかき分けて現れ、

子牛を抱えて戻ってきた。

全身が雪に覆われ、肩からは白い湯気が立っていた。

村人たちは息を呑んだ。

「……囲いの結びがほどけていた」

魔族はそう言って、静けさの結びを結び直した。

その手つきは丁寧で、祈りのようだった。

沈黙のあと、誰かが震える声で言った。

「……中へ。あたたまりなさい」

魔族は驚いたように目を瞬かせた。

吹雪の音だけがしばらく響いた。

「……よいのか」

「よいとも。命を助けてくれたのだから」

戸口が開き、温かな光が漏れる

魔族はためらいながらも一歩踏み入れ、

雪が床に落ちて小さな水たまりを作った。


四季と結びは、やがて村を越え、

隣の谷へ、さらにその向こうの街へと広がっていった。

結び札は旅人の荷に揺れ、

囲いの夜の歌は形を変えながら伝わり、

灰の祭りは地方ごとに色を変えた。

誰が広めたわけでもない。

ただ、

人が人を助けた記憶と、

魔族が輪に加わった夜の温もりが、

旅人の足と共に運ばれていった。

いつしかそれらは“国の祈り”と呼ばれるようになった。

さらに時は流れ、人間と魔族は共に暮らすようになった。

村の広場では「灰の祭り」が行われ、人々と魔族が肩を並べて祈りを捧げる。

子供たちは笑い、老人は語り、歌が響く。

魔王は遠くからその光景を見ていた。

「馬鹿者め……生きていれば、見られたものを。」

人間と魔族が笑い合う姿に、勇者の笑顔が蘇る。

勇者は死を選んだ。

二つの強大な力が並び立てば、世界が混沌に落ちると知っていたから。

だからこそ、魔王に未来を託した。

だが胸の奥で知っていた。

勇者が望んだ未来は、ここにある。

人も魔族も変わらない。

それがお前の答えだったのだな。

魔族は人間よりも長く生きる。

百年を過ぎてもなお若く、二百年を過ぎてもなお力を持つ。

だが二千年を迎える頃には、力は枯れ、ただ死を待つのみとなる。

魔王はその運命を知っていた。


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