第4話

――祈りは、いつも静かに形を変える。

誰にも気づかれぬまま、国の根を揺らしながら。


王都の空気は、かつてよりも穏やかだった。

戦の記憶は薄れ、街路には新しい建物が立ち並び、

人々は平和に慣れきっていた。

だが、その静けさの底で、

“祈りの形”が変わり始めていた。

最初は、市場の片隅での小さな仕草だった。

旅人が灰を指に乗せ、そっと空へ放つ。

「勇者さまが見守ってくださるように」

誰に教わるでもなく、その仕草は広がり、

やがて王都の大聖堂では、神像の足元に灰が積もり始めた。

司祭たちは困惑し、王族は眉をひそめる。

「……これは神への冒涜ではないのか」

「いや、民が救いを求めるのは自然なことだ。

勇者は確かに世界を救ったのだから」

意見は割れた。

だが、もっと複雑な思惑を抱く者たちもいた。


王宮の奥、金糸の幕に囲まれた会議室。

豪奢な衣をまとった王族たちが密かに集まっていた。

王子は拳を震わせながら言う。

「民衆は……勇者を愛している。

あの名を呼べば、どんな争いも静まる。

ならば――王家が“勇者の後継者”を名乗ればよいのだ」

叔父は杯を回し、薄く笑う。

「勇者像を増やし、祭礼を王家主導で行えばよい。

祈りの場を我らが整えれば、民は“王家こそ勇者の意志を継ぐ者”と信じるだろう」

姫は窓の外を見下ろし、冷静に言った。

「象徴は奪うものではなく、結びつけるもの。

勇者の血筋を王家に繋げてしまえば、王権は揺るぎませんわ」

老王弟は深い皺を刻んだ顔で呟く。

「……つまり、“勇者の物語”を王家の物語に、

編み直すということか」

部屋に満ちる空気は、敬意ではなく、

焦りと欲と恐れの混じった濁った熱だった。

彼らは勇者を敬っていない。

勇者を“利用”しようとしていた。


別の会議室では、重厚な鎧を纏った、

老王族たちが集まっていた。

「民が王ではなく勇者に祈るようになれば、王家の権威は崩れる」

「祈りの中心が勇者に移れば……王も神も、民の心から遠ざかる」

老将は胸当てを叩き、重い声で言った。

「勇者の仲間たちが動けば、王国は一夜で覆る。

竜族の魔術師、ワニガメ戦士、吟遊詩人……軍は持たぬ」

策士は冷たく言い放つ。

「勇者は……王権を脅かす“第二の王”だ」

恐れは祈りではなく、

権威を失うことへの恐怖だった。


王宮の奥、

分厚い石壁に囲まれた小さな会議室では、

重厚な鎧をまとった老王族たちが集まっていた。

鎧の継ぎ目がわずかに軋むたび、

その音が部屋の静けさを切り裂く。

卓上の燭台は低く揺れ、

老いた顔に刻まれた深い皺を照らし出していた。

彼らは“勇者信仰”そのものを恐れていた。


長老は拳を机に置き、

低く、押し殺した声で言った。

「民が王ではなく勇者に祈るようになれば、王家の権威は崩れる。

祈りの行き先が変われば、忠誠もまた変わるのだ。」

その瞳には、

長年王家を支えてきた者だけが知る

“崩壊の兆し”への恐怖が宿っていた。

鎧の肩飾りを指でなぞりながら、

神殿に近い立場の王族が続けた。

「勇者像が増えれば、王家の象徴が薄れる。

灰の奇跡が広まれば、神殿の権威も揺らぐ。

祈りの中心が勇者に移れば……王も神も、民の心から遠ざかる。」

その声は震えていた。

恐れは信仰のためではなく、

権威を失うことへの恐怖だった。


老将は鎧の胸当てを軽く叩き、重い声で言った。

「民衆が勇者に救いを求めれば、王家は不要になる。

そして――

勇者の仲間たちが動けば、王国は一夜で覆る。」

彼の言葉には、

戦場を知る者だけが持つ“現実的な恐怖”があった。

「竜族の魔術師、ワニガメ戦士、吟遊詩人……

あの者たちが一度に動けば、軍は持たぬ。」

鎧の中で、老いた心臓がわずかに、脈打つ音が聞こえるようだった。


策士は細い指で机を叩き、冷たい声で言い放った。

「勇者は……王権を脅かす“第二の王”だ。

民が祈りを捧げる相手が二人になれば、王家の力は半分になる」

深く息を吐き、長老は額に、手をやりつつ、

決断を告げるように言った。

「勇者の名を祈りに使うな。灰の儀式を禁じよ。

勇者像を撤去しろ。」

その声は震えていたが、震えの奥には

“王家を守るためなら何でもする”という固い意志があった。


部屋の中には、

祈りでも信仰でもない、

権威を守ろうとする者たちの焦りと恐怖が満ちていた。

彼らは勇者を敬っていない。

勇者を恐れている。

そして――

勇者の名が民の心を奪うことを、

何よりも恐れていた。


――その恐れを裏付けるように、

王都では奇妙な噂が生まれ始めていた。

それは、「老いた勇者の影を見た」という、

最初は誰も信じなかった小さな囁きだった。

夜更けの路地で、灯りに照らされた壁を、

白髪の勇者に似た影がゆっくりと歩いた――

そう語る者が現れたのだ。

影は声を発さず、ただ祈るように手を胸に当てていたという。

その噂は瞬く間に広がり、

王都の広場で起きた“老いた勇者の影”の騒ぎは、

その夜のうちに街路を駆け抜け、

翌朝には王都の外へと溢れ出していた。

最初に動いたのは旅人たちだった。

「見たんだ……勇者さまが、戻られた」

「いや、老いた姿だったが、あの歩き方は……間違いない」

彼らの言葉は、街道沿いの宿場町で酒とともに語られ、

商人たちの荷車に乗り、兵士たちの焚き火に落ち、

やがて国境の砦へと届いた。砦の兵士は眉をひそめる。

「……勇者が戻った? 本気で言ってるのか」

「分からん。だが王都は大騒ぎらしい」

その噂は、まるで風に乗った灰のように、

国境を越えていった。

街道を行き交う商隊が語り、

密偵が耳をそばだて、

各国の関所で兵士たちが顔を見合わせる。

「王国で……勇者が帰還したらしい」

その一言は、

どの国でも同じ反応を生んだ。

沈黙。

そして――ざわめき。

噂は、

恐れと期待と誤解を混ぜながら、

各国の宮廷へと届いていく。


「勇者が戻った?

ならば王国の軍事力は倍増したも同じだ」

帝国は勇者を“兵器”として認識していた。

皇帝は命じる。

「国境の砦を強化せよ。

王国が勇者を旗印に侵攻してくる可能性もある」

同時に密偵を王都へ送り込む。

密偵は広場で老いた勇者の姿を見て震えた。

「……本物かどうかは分からぬ。

だが、あの場にいた者は皆、信じていた」

帝国は恐れと焦りの中で揺れ始める。


「灰を売れ。

王国の民はいま“奇跡”を求めている」

商人たちは大量の灰を王国へ運び込み、

“勇者の加護を受けた灰”として売り始めた。

だが長老は呟く。

「祈りが力を持つとき、商いは必ず歪む。

王国の混乱は、いずれ砂漠にも届く」


「王家が弱るなら、いまこそ同盟を結ぶべきだ」

島国は王都へ使節団を送り、

“祈りの自由”の布告を歓迎する声明を出す。

だが裏では、

勇者の仲間たちに密かに接触しようとしていた。

「彼らを味方につければ、交渉は有利になる」

外交の影で、新たな火種が生まれつつあった。


山脈の空気は薄く、風は岩肌を削るように冷たかった。

その中心で、ワニガメ戦士はひとり、石造の勇者像の前に膝をついていた。

像の足元には、彼が毎年置いてきた小さな供物がある。

干し肉、磨いた石、そして戦場で拾った折れた斧の穂先。

それらはすべて、

”あの日の仲間を忘れないための印”

そこへ、王国の使者が駆け込んだ。

「戦士殿!勇者が……勇者が戻ったと……!」

息を切らし、声を震わせている。

だがワニガメ戦士は、ゆっくりと空を見上げただけだった。

「……勇者には勇者しかできぬ事がある」

その声は、岩の奥底から響くように低く、揺るぎない。

「某は、ここで待つ。そうであろう……勇者」

その目は優しく、石造の勇者像を見上げていた。

戦うためではない。

“友を信じて待つ者の静けさ”だけが、そこにあり、

使者は何も言えず、ただその沈黙に飲まれた。


断崖の上で竜族の魔術師は、風の流れを読むように指先をかざしていた。

掌には、勇者の灰を模した小さな灰が乗っている。

彼はそれをそっと空へ放つ。

灰は風に乗り、陽光の中で細い軌跡を描きながら散っていく。

その遥か下――

王国の学者たちが岩陰に身を潜め、声を潜めて議論していた。

「……彼の知識は危険だ」

「協力しないなら監視するしかない」

「王国の未来を左右する力だ」

恐れと焦りが混じった声。

だが魔術師は、

その声を聞きながらも、ただ微笑んだ。

「……いつの時代も変わらぬな」

怒りではない。

嘲りでもない。

ただ、

“友の願いを守りたい”という静かな祈りだけが、彼の胸にある。

彼は動かない。

動けば、それこそ戦の火種になると知っていたから。

風が灰をさらい、遠くへ運んでいった。


草原の風が駆け抜けてゆく。

舞踊家は、子どもたちに“勇気の舞”を教えている最中だった。

足さばきを見せていた時、

ふと動きを止め、遠くの空を見つめた。

胸の奥に、懐かしい気配が触れたのだ。

「……勇者?……」

子どもたちが不思議そうに見上げる。

舞踊家は無言で首を振った。

「……違う。あの人じゃない。

でも……似ている。あの優しさだけが、風に残ってる」

胸に手を当て、風の向こうにいる“誰か”を感じ取る。

「大丈夫だよ……ちゃんと守るから」

その瞳の奥には、争いではなく、

“守るための静かな決意”が宿っていた。

彼女もまた動かない。

動けば、草原全体が揺れると知っていたから。


王都から少し離れた丘の上。

風に晒された小さな祠が、ひっそりと佇んでいた。

それは、かつて勇者が救った村が

“恩を忘れぬように”と建てた祠。

そして――

彼女が神子として仕えていた場所。

今、祠の前に立つ彼女の姿は、あの頃とはまるで違っていた。

白い装束も、神子の印も、祈りの言葉も、

もう彼女にはない。

ただ、風に揺れる髪と、

胸の奥に沈んだ痛みだけが残っていた。

彼女は祠の扉に触れ、そっと目を閉じた。

胸の奥が、あの夜のように痛む。

――焚き火の前で泣いた夜。

――神を捨てた夜。

――勇者の死を受け止められなかった夜。

そのすべてが、祠の前に立つだけで蘇ってくる。

「……私は、あの夜から祈っていません」

誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、祠に染みついた記憶に語りかけるように。

「あんなに悩んで、あんなに苦しんで……

それでも、世界を……全てを救おうとした」

静かに頬から、涙が伝い落ちる。

「……それなのに……」

泣いて叫びたい衝動が、駆け巡り、それを唇を噛んで耐えた。

風が濡れた頬を撫でてゆく。

「だから私は神子を辞め、祈りを捨てたました。

勇者が好きだった世界を守るために……自分の足で立つと決めたんです」

その声は、怒りでも悲しみでもなく、ただ静かな決意だった。

だが――

今、王都では“勇者帰還”の噂が渦巻いている。

祠の前に立つ彼女の胸は、その噂に揺れていた。

「……あなたじゃないと分かっています。でも……」

祠の木壁に手を当てる。

「あなたの“優しさ”だけが、風に残っている気がするのです」

不意に、頬を一筋の涙が落ちてゆく。

また――あの夜と同じ涙だった。

だが、意味は違う。

あの夜は絶望の涙。

今は――

“願い”の涙。

「どうか……誰も傷つきませんように」

それは祈りではなかった。祈りの形をした、ただの願い。

だがその願いは、祠の奥に、そっと吸い込まれていった。

まるで、勇者の残した優しさが、そっと受け止めたかのように。


老いた騎士は遠くの空を見つめていた。

胸の奥がじわりと熱を帯びる。

理由は分からない。

だが、この熱を彼は知っていた。

かつて勇者と共に戦った日々――

あの背中が動くたび、世界がわずかに軋む感覚。

「……魔王?……」

だが、影の奥に揺れる気配が違う。

風が止まり、鳥たちがざわめきを潜め、

世界の“温度”が変わる。

老騎士は剣の柄に手を置き、深く息を吸い込んだ。

「勇者ではない。だが……勇者の影だ」

その声には恐れはなく、あの背中を守りたいと願った、

昔日の温かさが残っていた。

彼も動かない。

動けば、王都が戦場になると知っていたから。


誰も動かない。

誰も王都へ向かわない。

だがその沈黙は、

恐れからではなく、

“勇者の名を争いに使わせないための沈黙”

だった。

竜族も、巨人族も、草原も、祠も、砦も――

それぞれの場所で、

それぞれの想いを胸に、

ただ静かに“見守る”という選択をした。

その沈黙は、

王都のどんな軍勢よりも重く、どんな祈りよりも深かった。

そしてその沈黙こそが、

魔王が老いた勇者の姿で歩き出すための、

最後の後押しとなった。


奇しくもその日は、

“勇者が魔王を討ち倒した”とされる記念日だった。

王都の街路には祭礼の灯りが揺れ、

広場には祈りが満ちていた。

「勇者さま……どうか見守りを……」

王族は蒼白になり、

貴族は震え、

兵士は膝をつき、

民衆は涙を流して祈った。

そのとき――

王都の外れの闇の中で、魔王は歩き出した。

纏っているのは、老いた勇者の姿。

髪には白が混じり、背は少し丸くなり、

だが瞳だけはあの日のまま――

優しく、迷いを抱えた光を宿していた。

胸の奥で、灰がざわめく。

――あいつの名を、争いに使わせはしない。

魔王は、

勇者の影として前に立つ覚悟を固めた。

それは“勇者になる”ことではない。

ずっと演じ続けてきた姿を、

この夜だけは“争いを止めるための盾”として使う,

という決断だった。

そして――

老いた勇者の姿をした魔王は、ついに広場へ足を踏み入れた。

ざわめきが波のように広がる。

「……勇者さま……?」

「生きて……?」

「本物だ……本物の勇者さまだ……!」

祈りが震え、

王都が揺れ、

世界が息を呑んだ。

勇者帰還――その瞬間である。


老いた勇者の姿をした魔王は、

勇者像の前からゆっくりと顔を上げ、

王宮のバルコニーに立つ王族たちを見据えた。

その瞳は、老いた勇者のものではなく、

“真実を知る者”の静かな光を宿していた。

広場全体が息を呑む。

魔王は、王族にだけ届くような低い声で語り始めた。

「王よ。お前たちの務めは、民を導くことだ。

勇者の名を借りて支配することではない」

王族の肩が震えた。

「勇者は、王家を否定しなかった。王が王として立つ未来を望んでいた」

その言葉は叱責ではなく、

“道を正すための言葉”として響いた。

「だが、勇者の名を争いに使えば、民の祈りは王家から離れる」

魔王は一歩だけ前に進み、王族をまっすぐに見据えた。

「勇者の名は、王家の剣ではない。民の灯火だ」

広場の空気が震えた。

「その灯火を奪おうとするな。守れ。それが……王の務めだ」

その一瞬、王族の胸に、何かが深く刺さった。

若い王子は膝をつき、老王は震える声で呟いた。

「……勇者よ。なぜ、姿を失ってなお、我らを正す……」

それは、若い頃に見た、“本物の勇者”の背中を思い出した者の声だった。


魔王の姿が闇に溶けるように消えたあと、

広場にはまだ震えの残る静けさが漂っていた。

誰もが息を整えられず、祈りと涙の余韻が地面に落ちていた。

その静寂を――

カン、カン、カン――

蹄の音が、祈りの余韻を震わせるように近づいて来る。

だが広場の入口で、王子は手綱を引き、馬をゆっくりと歩ませた。

祈りの輪を乱さぬように。

誰一人、押しのけぬように。

祈りの輪を乱さぬように。

王家の紋章を掲げた若馬は、静かに広場へ進み出た。

その背にいる王子の瞳だけが、まっすぐに前を見据えていた。

護衛が追いつくより早く、王子は馬から降りた。

砂埃がわずかに舞い、民衆が息を呑む。

王子は祈りの余韻が残る中心へと歩き出した。

その足取りは急ぎながらも、決して人を押しのけることはなかった。

民衆は驚きに顔を上げる。

「……王子が、こんな時に……?」

ざわめきが波紋のように広がる。

王子は、胸の奥の衝動を抑えきれないように歩幅を速めながら、

まっすぐに広場の中心へと進んだ。

魔王が立っていた場所。

勇者像の前。

祈りの余韻がまだ残る場所。

王子はそこで立ち止まり、

深く息を吸い込んだ。

そして――

民の前で、膝をついた。

「……まずは、詫びねばならぬ」

広場が静まり返る。

王子の声は震えていなかった。

若さゆえの衝動ではなく、

若さゆえの“まっすぐさ”がそこにあった。

「王家は、勇者さまの名を

政治のために利用しようとしていた。

その過ちを、ここで正す」

民衆の間に驚きが走る。

王子は顔を上げ、

まっすぐに民を見つめた。

「祈りは民のものだ。

勇者さまの言葉を忘れぬように」

その声は、

魔王の残した言葉と重なり、

広場の空気をしんと震わせた。

王子が民の前で膝をつき、

「祈りは民のものだ」と宣言したその刹那――

王都の空気は、確かに変わった。

ざわめきは波のように広がり、

やがて静けさへと溶けていく。

だが、その静けさは恐れではなく、

“安堵”だった。


王子が広場から戻ると、

王宮は混乱していた。

老王は椅子に深く腰を下ろし、

震える手で額を押さえていた。

「……あれほどの民の熱を、

我らは見誤っていたのか」

王族たちは互いに顔を見合わせ、

誰も言葉を発せなかった。

だが王子は迷わなかった。

「父上。

勇者さまの名を争いに使わぬと決めた以上、

我らは“民の声”を聞かねばなりません」

その言葉に、

老王はゆっくりと目を閉じた。

「……ならば、評議会を作れ。

民の声を王宮に届ける場を」

こうして、

王国では初めて“民の代表”が王宮に招かれることになる。

農民、商人、兵士、聖職者、獣人、他種族――

さまざまな立場の者たちが、

王宮の白い石の廊下を歩く日が来た。

王宮の空気は、

かつてないほど柔らかくなっていった。


王子の布告は、

王都の隅々まで広がった。

市場では、

灰を売っていた商人が呟いた。

「……争いのためじゃなく、

無事を願うための灰だってさ」

その言葉に、

買いに来た母親が微笑む。

「それでいいんだよ。

勇者さまは、いつも“生きて帰れ”って言ってたんだもの」

祈りは変わった。

かつては――

「勝利」「加護」「敵を退ける力」

を求める祈りだった。

だが今は違う。

「無事でありますように」

「家族が笑っていられますように」

「争いが起きませんように」

祈りは、

力ではなく“優しさ”を求めるものへと変わっていった。

広場の勇者像の前には、

いつもより多くの花が供えられた。

だがその花は、

戦勝を願うものではなく、

“平穏を願う花”だった。


訓練場の片隅。

若い兵士たちがざわめいていた。

「勇者の加護って……

勝つためじゃなくて、守るためなんだよな?」

その言葉に、

年配の兵士がゆっくりと顔を上げた。

彼の鎧は古く、

肩当てにはいくつもの傷が刻まれている。

その傷は、

かつて“本物の勇者”と共に戦った証だった。

若い兵士が恐る恐る尋ねる。

「……先輩は、勇者を見たことがあるんですか?」

年配の兵士は、

遠くを見るように目を細めた。

「見たことがある、じゃない。

一緒に戦ったんだ。

あの人は……もっと若くて、迷ってて……優しかった」

若い兵士たちが息を呑む。

年配の兵士は、

ゆっくりと語り始めた。

「勇者さまはな……

強かったが、それ以上に“迷う人”だった。

戦うたびに、誰かが傷つくたびに、

胸を痛めていた」

その言葉は、

戦場を知る者だけが持つ、静かな重みを帯びていた。

若い兵士たちは黙り込み、

その言葉を胸に刻んだ。


大聖堂では、

司祭たちが神像の前に集まっていた。

「灰が積もるのは……神への冒涜ではないのか」

「いや、民は救いを求めているだけだ。

勇者も神も、民を導く存在であることに変わりはない」

議論は続いた。

だが、

王子の布告が神殿にも届いたとき――

司祭長は厳かに言った。

「祈りは民のものだ。

ならば、我らは祈りの形を否定するのではなく、

見守るべきなのだろう」

その言葉は、

神殿の空気を柔らかくした。

神殿は、

勇者信仰を敵視するのではなく、

“共に祈る場”へと変わっていった。


貴族たちは恐れていた。

だが、

魔王の言葉と王子の布告を聞き、

彼らは悟った。

「勇者の名を利用すれば、

民は我らを見限る……」

その日から、

勇者の名を政治に使う貴族は消えた。

代わりに、

“民の声を聞くふり”をする貴族が増えた。

偽善ではあるが、

結果として王都は少しだけ平和になった。

王子の布告は、

王国全土へと広がっていった。

「祈りは民の自由である。

勇者に祈ることも、神に祈ることも、

いかなる者も妨げてはならぬ」

この布告は、

王国の歴史において初めて

“祈りの自由”を明文化したものだった。

民は安心し、

王家への信頼はゆっくりと戻り始めた。

祈りは、

争いの火種ではなく、

国を結ぶ静かな糸となっていった。


――祈りの形が変わるとき、国の声もまた変わる。

王宮の奥、

これまで貴族と王族しか足を踏み入れたことのない白い石の廊下に、

異なる足音が響いていた。

農民の粗い靴。

商人の軽い足取り。

兵士の重い軍靴。

獣人の柔らかな足音。

神殿の司祭の静かな歩み。

それぞれの足音が、

王宮の静けさに新しい色を落としていく。

王子はその光景を見つめ、

胸の奥がわずかに熱くなるのを感じていた。

「……これが、父上が言った“民の声”か」

扉が開かれると、

広い円卓が中央に置かれた部屋が現れた。

これまで王族と貴族しか座ったことのない席に、

初めて“民”が座る。

緊張が空気を張りつめさせた。


最初に口を開いたのは、

粗末な服を着た農民の代表だった。

彼は深く頭を下げ、

震える声で言った。

「……殿下。

わしらは、ただ……

戦が起きぬように願うだけでございます」

その言葉は、

どんな政治論よりも重かった。

王子はそっと頷く。

「その願いを、国の中心に置こう」

次に商人が口を開いた。

「灰の商いは……確かに利益になります。

ですが、祈りが“金”になるのは……

どこか、間違っている気がするのです」

その言葉に、

司祭が小さく頷いた。

「祈りは売り物ではない。

だが、祈りを否定することもできぬ」

商人は苦笑した。

「だからこそ、王家が“形”を示してほしいのです。

祈りを争いに使わぬという形を」

王子は深く息を吸い込んだ。

「……約束しよう。王家はそれを奪わない」


鎧を着た年配の兵士が、

ゆっくりと席を立った。

彼の鎧には古い傷が刻まれている。

それは、若い頃の勇者と共に戦った証だった。

円卓の視線が彼に集まる。

兵士は胸に手を当て、

語り始めた。

「……昨夜の“老いた勇者”を見て、私は震えました。

姿も声も、あの方そのものでした。

誰が見ても、あれは勇者さまです」

若い兵士たちが息を呑む。

だが、年配の兵士はゆっくりと首を振った。

「ですが……

私が知る勇者さまは、もっと若く、迷い、

そして……誰よりも優しい方でした」

その声には、

戦場の記憶が滲んでいた。

「勇者さまは我々より強かった。

誰よりも勇敢で、どんな時も恐れず、

私たちの前で戦っておられた。

自分が、どれほど傷つこうとも……

その背中は決して揺らがなかった」

兵士は拳を握りしめた。

「……正直に申せば、私は恐ろしかったのです。

死ぬ事を恐れないような、戦い方をする勇者さまが」

円卓が静まり返る。

「だから、ある日……私は聞いたのです。

“どうしてそこまで、無謀な戦い方ができるのか”と」

兵士は目を閉じ、

遠い記憶を、そっと呼び起こすように続けた。

「勇者さまは多くを語らぬ方でした。

ただ、こう言われたのです。

“自分は大丈夫だから。

心配してくれてありがとう。

君たちは僕が必ず守るから……

だから僕の真似はしないでね”」

幼さを残した笑顔が、ありありと思い出せた。

あの時感じた、切ない気持ちも

過去を振り切るように

言葉を兵士は続ける

「私は思うのです。

勇者さまは本当は、こう言いたかったのだと。

『勝つためではなく、

生きて帰るために戦え。

未来を諦めるな』」

兵士は深く頭を下げた。

「どうか……

その教えを、国の方針にしていただきたい」

円卓の空気が震えた。

それは、

“勇者の問い”を知る者だけが語れる、

静かで、揺るぎない証言だった。

王子はその言葉を噛みしめるように聞いた。

「……守るための軍を作ろう。

攻めるためではなく、

民を守るための軍を」

兵士は深く頭を下げた。


草原から来た獣人の若者が立ち上がる。

「舞踊家は……動きません。

あの人が動けば、草原全体が揺れるからです」

その声は静かだったが、

胸の奥に強い誇りが宿っていた。

「草原は、王国と争うつもりはありません。

ただ……

勇者さまの名を汚さぬようにしてほしい」

王子は真剣な眼差しで頷いた。

その瞳には、若さゆえの迷いと、

それでも前に進もうとする意志が宿っていた。

「……約束する。

王子として誓おう。

勇者さまの名は、

誰の武器にもさせない」


最後に、神殿の司祭が立ち上がった。

「祈りは、形を変えます。

だが、祈りそのものは消えません。

王家が祈りを縛らぬと決めたなら……

神殿もまた、民の祈りを受け入れましょう」

その言葉は、

神殿の長い歴史の中でも稀な“譲歩”だった。

王子は深く頭を下げる。

「……ありがとう。

王家も、神殿も、民も、

同じ祈りを見つめられる国にしたい」


会議が終わる頃、

円卓の空気は最初よりも柔らかくなっていた。

農民は涙を拭い、

商人は胸を張り、

兵士は黙って頷き、

獣人は誇りを抱き、

司祭は祈りを捧げた。

王子はその光景を見つめながら、

胸の奥で小さく呟いた。

「……これが、国の声か」

その声は、

魔王が残した“問い”への

最初の答えだった。


――光の裏には、必ず影がある。

評議会の扉が閉じられたあと、

王宮の奥の細い廊下には、

ひそやかな足音がいくつも重なっていた。

壁に掛けられた古いタペストリーの裏。

そこには、

王族と貴族だけが知る“隠し回廊”がある。

その暗がりに、

数人の貴族が身を潜めていた。

薄暗い光の中で、

彼らの瞳だけが鋭く光っている。

「……民を王宮に入れるなど、正気の沙汰ではない」

「王子は若すぎる。

あれでは民の声に流されるだけだ」

「勇者の名を利用できぬとなれば、

我らの力はどうなる……?」

囁きは、

壁に吸い込まれるように低く響いた。

だが、その声の奥には、

焦りと恐れが混じっていた。

隠し回廊には、

評議会室を見下ろすための小さな覗き窓がある。

貴族たちはそこから、

円卓に座る農民や商人、兵士、獣人たちを見下ろしていた。

「……あれが“国の声”だと?

笑わせるな」

「民の声など、

時により形を変える風のようなもの。

それに国を任せるなど……」

「だが王子は本気だ。

あの目を見ただろう」

「だからこそ厄介なのだ。

若さゆえの真っ直ぐさは、時に国を壊す」

彼らの声は冷たかったが、

その冷たさは“余裕”ではなく“恐れ”だった。


円卓の下から、

年配の兵士の声が聞こえてくる。

『勝つためではなく、

生きて帰るために戦え。

未来を諦めるな』

その言葉が響いた瞬間、

隠し回廊の空気がわずかに揺れた。

「……勇者の言葉か」

「民はああいう話に弱い。

あれが広まれば、

王家の軍は“攻める軍”ではなくなる」

「守る軍など……

貴族の領地を守るには役に立たぬ」

「そうだ。

攻める力を失えば、

我らの発言力も落ちる」

彼らは、

兵士の証言そのものよりも、

“民がそれを信じること”を恐れていた。

王子の声が響く。

『祈りは民のものだ。

勇者さまの名を争いに使わぬ』

その瞬間、

隠し回廊の空気が凍りついた。

「……終わったな」

「王家が勇者の名を手放すなど……

愚かにもほどがある」

「いや、まだだ。

王子は若い。

若さは揺らぐ。

我らが揺らせばよい」

「評議会など、形だけのものにすればよいのだ」

影の中で、

冷たい笑みがいくつも浮かんだ。

その中の一人、

老いた貴族がひっそりと呟いた。

「……勇者さまは、本当にそう言ったのか」

他の貴族が眉をひそめる。

「何を言う。あれは兵士の作り話だ」

だが老貴族は首を振った。

「いや……あの言葉には、嘘の響きがなかった。

あれは……本当に勇者さまが残した想いだ」

その言葉に、影の空気がわずかに歪む。

「……お前まで民の側に立つつもりか?」

「違う。ただ……勇者さまの名を利用するのは、

もう終わりにすべきなのかもしれん」

沈黙が落ちた。

影の中にも、光がほんの少しだけ差し込んだ瞬間だった。


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