死神の嫁

梓馬みやこ

第1話 めんどくさがりの死神

 死神。

 ある国では人に死を望ませ、ある国では死の管理人でもあり、概念でもある。

 彼らにとって共通なのは良くも悪くも「死の世界へ導く」という根源的な性質を持つことだ。


「あぁ……ダリぃな……ノルマが多すぎる」


 彼の外見はほとんど人間で、均整の取れた日本人のそれに酷似していた。

 若干細身の体に黒髪。風になびくダークスーツのボタンは止まっておらず、白いシャツに白灰のネクタイをしている。それに黒革の手袋。

 左の胸には金色の徽章をしていた。短剣符のそれは死を象徴している。

 一目で人間と異なるとわかるのは薄紫色の瞳と手に持たれた大鎌だろうか。


 彼はビルの屋上にある古びた給水塔の上から見渡し、街並みを眺める。

 タバコのように紫の淡い煙がたゆたって、彼の倦怠感を表しているかのようだった。


「……」


 給水塔の眼下の屋上に、古い金属製の扉をきしませて一人の女が現れる。

 彼女は鉄柵を前に震える手を伸ばし、はるか下方にある人気のない雑踏をじっとみつめていた。


「勝手に仕事増やそうとすんの、ダリぃからやめてくんねぇかなぁ」


 彼は人の魂を導く死神だ。彼女が何をする気なのかは考えずとも理解に及び深いため息とともに呟く。

 聞こえはすまい。姿が見えるのもよほど感受性の強い者か、本当に死期が近い者だけだ。それでも気だるさにぼやかずにはいられない。


「お前は台帳に載ってないから、ここ飛び降りても死なねぇんだけどな……」


 彼女は柵を超える勇気もなく、しかし希望もないようだった。佇む姿に給水塔から身を乗り出して、独り言をやめ声をかける。


「なぁ、やめとけって。お前そこから飛び降りても死なねぇぞ。どうせ聞こえてねぇんだろうけど」


 彼女はその時、はぁっとため息つく声が頭上から降ってくるのを聞いた。

 誰もいないはずの古いビルの屋上で、声の方を見る。

 自分を見下ろす薄紫色の瞳があることにそして、気が付いた。

 確かに彼女はひどく傷ついてここから身を投げようとしていた。衝動的にしても、気持ちが持続するくらいの絶望感は味わっている。

 しかし、楽にならないと言われて突然に意識が現実に戻ったようだ。


「落ちても死なないの?」


 彼は彼女が自分に反応したことに一瞬瞳を大きく見開いたが、疲れたような表情で彼女を見下ろしながらビル風に死神の衣装を風になびかせている。

 見えるのかよ、珍しい奴だな。と独り言ちて大鎌を消し、給水塔を軽く蹴って降りると、彼女に歩み寄る。


「台帳に載ってねぇから、お前はまだ生きてるべきなんだよ。俺の仕事は増えるわ、死ぬほど痛い思いするわでお互いよくないから、死のうとするのは勧めねぇぞ」


 彼が言うと、彼女は怪訝そうに彼の顔を見た。

 薄紫色の瞳に彼の周囲にたゆたう紫煙……何より雰囲気から人間でないことはどこかで理解しつつ、現世を越境しようとしていた彼女は彼をあっさり受け入れる。


「……怪我はするの? 死ぬほど痛いやつ?」


 言われると眉をひそめる彼。なぜか少し困惑した表情で彼女を見つめる。


「怪我するに決まってんだろ。ビルから落ちて無傷なわけねぇよ。骨は粉々になるだろうなぁ、内臓も潰れるかもな。痛み止めなんて持ってねぇぞ、こっちは」

「なにそれ怖い」


 生々しい表現に感想を本気で漏らしながら彼女は眉を寄せる。

 彼は肩をすくめながら少しだけ同情的な表情を浮かべる。

 雲がかったかすんだ太陽光が屋上を鈍く照らしている。


「怖いなら飛び降りるのはやめとけよ。そんな痛い思いする必要ねぇだろ。お前、なんか辛いことあったのか?」


 親切に聞かれて彼女は反射的に答えた。


「彼氏に振られた上に、冤罪で会社から社会的に抹殺された」


 驚いたような表情で死神である彼は眉を上げ、彼女の言葉に少し興味を持った様子。


「はぁ? 冤罪で社会的抹殺って……確かに、それは死にたくなるわ」


 肯定された。死にたい。


「なんで死ねないの? この状態で生きる意味あるの?」


 ため息をつきながら淡く霞がかった薄水色の空を見上げる。ビルの屋上からは広がる街並みが遠くに見えるが、死神にとっては無意味なものだ。


「意味なんて俺にもわかんねぇよ。俺は死神だから死ぬヤツ連れてくのが仕事だけど、そんなこと考えてたら仕事になんねぇんだよな」

「死にたいから連れてって!」


 彼女は死神と聞いて即座にお願いをする。ビルから飛び降りるより安心(?)、確実だ。何より痛くなさそうである。

 あきれたように眉を顰め、彼は軽く両手を広げながら頭を振った。


「おいおい、簡単に言うなよ。死神だって仕事を選ぶ権利ぐらいあるぜ。台帳に載ってねぇ奴を連れてくのはマジで面倒なんだよ」

「そこをなんとか!」


 彼は溜息をつきながら、面倒臭そうに髪を掻き上げる。口調とは裏腹に整った顔には厄介ごとが来たとばかりの複雑な表情が浮かんでいる。


「ったく、そんなに死にたいなら方法がないわけじゃねぇけど……普通のやり方じゃねぇぞ。台帳に載ってねぇから、俺の裁量で少し『調整』する必要がある」

「時間かかるの?」


 眉間にしわを寄せ、彼は少し悩ましげな表情で空を見上げる。ビルの屋上からは街の喧騒がかすかに聞こえるが、遠い世界のようだった。


「まぁ、ちょっと手順踏まなきゃなんねぇからな。面倒くせぇけど仕方ねぇ。今から少し『調整』するからちょっと待ってろ」

「どれくらい?」


 彼が指先で空中に複雑な紋様を描くと、微かに光る文字が周囲に浮かび上がる。その表情は怠惰さを残したままだが、それを確認しながら応える。


「正確には言えねぇけど……多分、明日の朝ぐらいには終わるだろ」

「じゃあまた来ます」


 安楽死が確定したようなので、彼女は帰宅することにした。

 彼女が去ってしばらく、彼はビルの上から遥か眼下を歩く彼女の姿を見送っている。


「まったく……台帳の手続きなんて久しぶりだし、上司にバレたら面倒くせぇんだよな」


 肩をすくめながら、紫煙のオーラを微かに揺らめかせつつ、彼は虚空を見つめる。


「まあいい、仕事は増やしたくないしな……」


 彼は少し遠い目をしながら死者のリストである台帳への介入を再開した。

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