第1章 第7話 小さな相棒との帰還と、交わらぬ壁

巨大な黒箱が運び出されてから、家の中に残っていた異様な熱気は、ようやく薄れ始めていた。

それでも完全には消えない。煤の匂い、消毒液の刺激、そして人の気配が引き剥がされたあとの、妙に乾いた空気。ギユウはその残滓の中で、東京へ戻る支度をしていた。


玄関先には祖母と、数人の親族が並んでいる。

形式的な見送りだ。誰もがそれを自覚していて、だからこそ必要以上の言葉は交わされなかった。


「ぎっちゃん、ほんまに助かったわ」


祖母の声だけが、場違いなほど柔らかかった。

その声音には、騒動の前と同じ温度があった。ギユウにとっては、それだけで胸の奥が少し緩む。


「おばあ、あのロボット……絶対、ただもんちゃうで。ほんまにありがとう。大事にする」


キャリーケースの中には、小さな相棒と木製メガネが収まっている。

祖母は一度だけケースに視線を落とし、それから迷いなくうなずいた。


「ええよ。あれは、あんたが持っとくのが一番や」


そう言って、昔と同じようにギユウの頭を軽く叩いた。

その仕草があまりに自然で、ギユウは一瞬、この数日間の出来事すべてが悪い夢だったのではないかと錯覚しかける。


だが、その錯覚はすぐに壊された。


親族たちの視線が、祖母ではなくギユウに集まっている。

正確には、彼が持つキャリーケースに向けられていた。


「……あんた、あれも一応“出どころ不明”なんやろ」


遠慮の皮を被った声だった。

別の親族が、念を押すように続ける。


「もしまた変なことが起きたら、今度こそすぐ役所に届けなさいよ。もうこれ以上、厄介事は御免や」


その言葉には、心配よりも先に、拒絶があった。

ギユウ個人への嫌悪ではない。だが、騒動を連れてきた存在として、線を引こうとする空気がはっきりとあった。


――交わらへん。


その感覚が、胸の奥に静かに落ちる。

ギユウは何も言い返さなかった。言葉を重ねたところで、この溝が埋まることはないと分かっていたからだ。


キャリーケースの取っ手を、少しだけ強く握る。

それだけで、もう十分だった。


新幹線に乗り、乗り継ぎを経て、夜の東京へ戻る。

見慣れた街の光は、故郷の暗さとはまるで別の色をしていた。だがギユウは、その違いに安堵している自分に気づく。


部屋のドアを閉めた瞬間、空気が変わった。

金属と油の匂い、稼働中のPCが吐き出す微熱、棚に並ぶ発条石の湿った気配。現代科学と古代カラクリが無秩序に同居する、この部屋だけが、ギユウにとって完全に呼吸できる場所だった。


キャリーケースを開け、小型ロボットと木製メガネを机に並べる。

煤と埃を、布で丁寧に拭い落とす。すると、胴体に埋め込まれた墨脈回路が、飴色の光沢を帯びて浮かび上がった。


――やっぱり、綺麗や。


装飾ではない。

意味を持った線だけが、無駄なく刻まれている。その構造を見ているだけで、思考が自然と深く潜っていく。


指先で墨脈をなぞると、内部に眠る“理”が、まだ完全には死んでいないような錯覚があった。

胸の奥で、好奇心が小さく跳ねる。


掃除が終わると、ギユウは迷わず解析に入った。

それは義務感でも使命感でもない。ただ、そうせずにはいられない性質だった。


まずは基本。

発条石による起動確認。最高品質の石を受け皿にセットし、出力を最大まで引き上げる。


……反応なし。


墨脈は沈黙したまま、微振動すら起こらない。

角度を変え、石を交換し、手順を変えて何度も試す。それでも結果は変わらなかった。


椅子にもたれ、ギユウは息を吐く。


「回路は生きとる……のに」


構造的な破綻はない。

それなのに、完全な沈黙。


しばらく考え込み、ギユウは思考の中に立ちはだかる“壁”を見据えた。

古代技術と現代科学は交わらない。

それが、この分野の常識だ。


――せやから何や。


次の瞬間、その壁を乱暴に蹴り破る。

PCを起動し、変換ケーブルを広げ、計測機器を接続する。


墨脈回路とデータポートを繋ぎ、微量の直流電流を流す。

抵抗値を測定し、電磁波を照射し、発条石に間接刺激を与える。


結果は、あまりに明確だった。


電流は完全に拒絶され、抵抗値は無限大。

電磁波は透過すらしない。

古代回路は“電気”という概念を、根本から持っていなかった。


全ての電源を落とし、ギユウは椅子に深く沈み込む。


「……参ったな」


敗北感が胸に広がる。

だが同時に、別の熱が、確実に膨らんでいた。


ここまで噛み合わない技術は、見たことがない。

それは拒絶であり、同時に、未知そのものだった。


ギユウはメガネをかけた小さな相棒を掌に乗せる。

沈黙しているはずなのに、不思議と視線が合っている気がした。


巨大な黒箱は失った。

だが、その代わりに、誰も踏み込んだことのない“壁”が、ここにある。


ギユウの好奇心は、断絶によってむしろ加速していた。

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