第2話

「はーい、どうぞ〜」


ノックに応じて、のんびりとした声が返ってきた。

智也はそっとドアを開ける。

保健室の中は、ほんのりとハーブの香りが漂い、外の喧騒とは別世界のように静かだった。


「失礼します。あの、担任の先生に来るように言われて……」


「うんうん、どうぞ〜。そこ、空いてるベッド使っていいよ〜」


白衣の女性は、窓際の椅子に座りながら、湯気の立つマグカップを両手で包んでいた。

さっき窓から顔を出していた人だ。

近くで見ると、さらに美人だった。

けれど、その表情はどこか眠たげで、まるで猫のように気まぐれそうな雰囲気をまとっている。


「えっと……先生、ですか?」


「うん、保健室の先生。白石つばきっていいます。よろしくね〜」


「……黒川智也です。今日から転入してきました」


「うんうん、知ってるよ〜。さっき、机が飛んでった子でしょ?」


「……はい」


「大丈夫だった?ケガしてない?」


「いえ、なんとか……。でも、あれ、普通じゃないですよね?」


「ん〜、まあ、たまにあるよね。春先は風も強いし」


「いや、風で机は飛ばないと思うんですけど……」


「そう?でも、飛んでっちゃったものは仕方ないし。はい、お茶でも飲む?」


白石先生は、隣のポットから湯を注ぎ、湯呑みに入れて差し出してきた。

智也は戸惑いながらも、それを受け取る。


「……ありがとうございます」


「転校って、疲れるでしょ?うちの学校、ちょっと変わってるけど、まあ慣れれば平気よ〜」


「“ちょっと”で済めばいいんですけど……」


「ふふ、黒川くん、面白いね〜」


先生はくすりと笑った。

その笑顔は、どこまでも自然で、どこまでも無防備だった。

けれど、智也の中には確かな感覚があった。


——この人、ただ者じゃない。


異常を異常と認識しながら、まるでそれを“日常”として受け入れている。

それどころか、無意識に回避しているようにすら見える。


「……先生って、変なことに巻き込まれたりしませんか?」


「変なこと? うーん……この前、保健室のベッドが急に沈んで、地下室に落ちたことはあったかな〜。でも、ちょうどお昼寝してたから、気づいたら元に戻ってたよ」


「……やっぱりおかしいですよ」


「そう? まあ、気にしすぎると疲れるからね〜。お茶でも飲んで、のんびりしよ?」


智也は、湯呑みの中でゆらゆら揺れるお茶を見つめた。

この人のそばにいれば、もしかしたら——


「……ここなら、転校しなくて済むかもしれない」


「ん? なんか言った?」


「いえ、なんでもないです」


智也は、そっと笑った。

ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。


そのとき、保健室の天井が“ピシッ”と音を立てた。

見上げると、天井の一部が光り始めている。

まただ。転生フラグだ。

このままでは、天井が開いて異世界の使者が降ってくる——


「……あ、蛍光灯つけっぱなしだった」


白石先生が立ち上がり、パチンとスイッチを切った。

光は消え、天井は元通りになった。


「ふぅ、まぶしかった〜。じゃ、私はちょっと昼寝するから、何かあったら起こしてね〜」


そう言って、先生はベッドに潜り込んだ。

数秒後には、すぅすぅと寝息が聞こえてくる。


智也は、湯呑みを持ったまま、しばらくその寝顔を見つめていた。


「……やっぱり、この人、ただ者じゃない」


そして、彼の“転生未遂”な日々が、静かに幕を開けた。

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2025年12月15日 17:00
2025年12月16日 17:00
2025年12月17日 17:00

保健室のセンセーは今日も平常運転 aiko3 @aiko3

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