第7話ー二人だけの夕餉

夕暮れ時、ユーリが小屋を訪れた。


簡素な服を着ていたが、髪を丁寧に整え、少しだけ化粧をしていた。悲しみに沈んだ日々の中で、それでも人を訪ねるために身なりを整えるという、その小さな心遣いに彼女の芯の強さが垣間見えた。


「守り手さま、お邪魔します」

「どうぞ、入ってください」


僕の小屋は、質素だが快適だった。一部屋だけの小さな空間。そう狭くないが、大して広くもない。

寝台にテーブル、椅子、棚。それだけだ。けれど、清潔に保つようにしていて、窓からは美しい夕陽が見えた。西の空を茜色に染める光が、小屋の中まで優しく差し込んで、木の床や壁を柔らかな琥珀色に照らしていた。


塵一つない窓ガラスを通して、沈みゆく太陽が、まるで一日の労苦を労うように、穏やかな輝きを放っている。


テーブルには、既に料理が並んでいた。


野菜のスープ。焼いた肉。温かいパン。果物のサラダ。


シンプルだが、心を込めて作った。湯気を立てるスープからは、根菜と香草の優しい香りが立ち上り、こんがりと焼けた肉は艶やかな焼き色をまとっていた。

パンは手で千切ればふわりと湯気が溢れ、果物のサラダは夕陽を受けて宝石のように輝いている。


質素な木のテーブルの上に並んだそれらは、決して豪華ではなかったが、誰かのために用意されたという温もりに満ちていた。


「わぁ……」


ユーリは、目を輝かせた。


「すごい……守り手さま、こんなに料理がお上手だったんですね」


その声には、驚きと共に、ほんの少しだけ明るさが戻っていた。悲しみに暮れていた少女の瞳に、一瞬だけ灯った光。それは、まだ小さく儚いものだったが、確かにそこにあった。


「いえ、大したことはありません。どうぞ、座ってください」


二人で、食事を始めた。


最初は少し気まずい沈黙があったが、次第に会話が生まれ始めた。木のスプーンが陶器の器に触れる音、パンを千切る音、そういった小さな音が、静かな小屋の中に柔らかく響いていた。


窓の外では、夕陽がゆっくりと地平線へ沈んでいく。刻一刻と変わる光の色——茜から紅へ、紅から紫へ——それが二人の横顔を、移ろう色彩で染めていく。


「このスープ、本当に美味しいです」

「ありがとうございます。村から頂いた野菜を使いました」


「お肉も柔らかくて……」

「弱火でじっくり焼いたんです」


ユーリは、少しずつ笑顔を取り戻していった。食事が進むにつれ、彼女の表情が明るくなっていくのが分かった。

まるで凍てついた湖面が春の陽射しでゆっくりと溶けていくように、彼女の頬に血色が戻り、瞳に生気が宿っていく。温かな料理を口にするたび、温かな会話を交わすたび、彼女の心が少しずつ、ほんの少しずつ、ほどけていくのが見て取れた。


「ユーリさん」

僕は、おそるおそる尋ねた。


「儀を終えた今、どうですか」


ユーリは、少し考えてから答えた。手に持ったパンを見つめ、一呼吸置いてから、静かに言葉を紡ぎ出した。


「正直に言うと、辛いです」


「そうですよね」


「なんだかまだ、お母さんもお父さんも、生きているような気がして」


彼女は、パンを小さく千切った。その指先が、わずかに震えていた。

「でも、すぐに現実に引き戻されます。これから先、空っぽの家に一人でいることの決心がつきました」


その言葉には、まだ癒えぬ痛みと、それでも前を向こうとする強さが、同時に込められていた。彼女の声は震えていたが、途切れることはなかった。


僕は、黙って聞いていた。こういう時、言葉は時として邪魔になる。ただ、耳を傾けること。それだけが、今の僕にできることだった。


「友達が、優しく声をかけてくれました」

ユーリは、小さく笑った。悲しみの中にある、小さな感謝の笑み。


「でも、やっぱり、寂しいです」

「そうですよね」


「守り手さま」

ユーリは、僕を見た。その瞳は、夕陽の残照を映して、琥珀色に揺れていた。


「守り手さまは、一人で寂しくないですか」

その質問に、僕は少し驚いた。


「僕は……」

どう答えればいいだろう。


寂しい、という感覚が、よく分からなかった。一人でいることが当たり前だったから。感情というものが、まるで遠い国の言葉のように、僕の中で定まらなかった。


孤独が、空気のように当然のものだった僕にとって、それを「寂しい」と名付けることさえ、どこか他人事のように感じられた。


「分かりません」

僕は、正直に答えた。


「寂しいという感覚が、よく分からないんです」


ユーリは、不思議そうな顔をした。彼女の表情には、驚きと、そして少しの悲しみが浮かんでいた。


「そうなんですか」


「ええ。ずっと一人で生きてきたので。いや、多分ずっと一人だったので」


「多分?」


「僕は、記憶が曖昧なんです」


僕は、自分でも驚くほど素直に話していた。いつもなら、こんなことを口にすることはない。けれど今夜は、ユーリが自分の痛みを語ってくれたから。その誠実さに、僕も誠実さで応えたかった。


「いつから守り手だったのか、その前は何をしていたのか、全部忘れてしまって」


「それは……」


ユーリは、心配そうな顔をした。自分の悲しみを抱えているというのに、他者の痛みに心を寄せることができることが、彼女という人間の本質なのだろう。


「辛くないですか」


「どうでしょう」


僕は、窓の外を見た。夕陽が、地平線に沈もうとしていた。最後の光が、空を深い群青色に染め始めていた。昼と夜の狭間、世界が最も美しい色彩をまとう刻限。その移ろいゆく光の中で、僕は自分の内側を探った。


「辛いかどうかも、よく分からないんです。ただ時々、とても不安になります」


「不安?」


「自分が何者なのか分からない不安。自分がここにいる意味が分からない不安」


僕は、自分の手を見た。働き者の、節くれだった手。けれど、この手がいつから存在していたのか、何を掴んできたのか、それを思い出すことはできなかった。


「でも、守り手という役割があります。それが、僕を繋ぎ止めてくれています」


ユーリは、しばらく黙っていた。小屋の中には、静寂が降りていた。けれど、それは重苦しい沈黙ではなかった。二人の間に流れる空気は、不思議と温かく、互いの痛みを分かち合うような、そんな親密さに満ちていた。そして、静かに言った。


「守り手さまも、寂しいんですね」


その言葉に、僕は何も答えられなかった。もしかしたら、そうなのかもしれない。

寂しさという感情を知らないと思っていたけれど、もしかしたら、それはずっと僕の中にあって、ただ名前を与えられていなかっただけなのかもしれない。


ユーリが今、それに名前をつけてくれた。その事実が、胸の奥で小さく疼いた。


食事が終わると、ユーリは立ち上がった。


窓の外は、すっかり暗くなっていた。星が、一つ、また一つと、夜空に瞬き始めている。小屋の中には、ランプの温かな光だけが残されていた。その柔らかな光に照らされて、ユーリの横顔が、穏やかに見えた。


「守り手さま、本日はお招きいただき、本当にありがとうございました」


彼女は深々とお辞儀をすると、涙をこぼした。




〜次回 一人ではない夜〜

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空葬譚―約束の花は、二度と咲く― 朝霧文女 @aymasgr

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