第3話ー白龍

サラマンダーの名は、僕が名付けた——と思う。



いつ名付けたかは覚えていないが、気づいた時にはそう呼んでいた。


サラマンダー。


伝説上の火の精霊の名前。


けれど、この龍は火を吐かない。咆哮もしない。白い身体をしていて、ただ、静かに空を飛ぶだけ。


サラマンダーが、僕を見た。

その瞳が、僕の目を捉えた。


深い紫色の瞳。その奥に、無限の時間が流れているような瞳。


僕は、その視線を受け止めた。

そして——何かを理解した気がした。


何を理解したのかは、言葉にできない。

ただ、確かに何かが伝わってきた。


サラマンダーのその広大な背に、白い布で包まれた故人を乗せる。これも、僕の大事な役目のひとつだ。


僕は、「白い布」を慎重に抱え上げる。

思っていたより軽い——といつも思う。


魂が抜けると、体は軽くなるのだろうか。

それとも、元々人間はこんなに軽いものなのだろうか。


サラマンダーは、背を低くして僕を待っている。

僕は、その背によじ登る。


鱗は冷たく、滑らかだった。手をかけると、確かな感触がある。これは幻ではない。確かに存在する、生きている龍。


背の中央に、故人を横たえる。

丁寧に、敬意を込めて。


「ヤァ、テッラ」

僕は小さく呟いた。


そして、サラマンダーの背から降りる。

サラマンダーが、再び翼を広げた。


そして——

白龍は空へと昇る。最初は、ゆっくりと。翼が一度、羽ばたく。体が宙に浮く。


もう一度、羽ばたく。

さらに高く。


人々は、空を見上げている。

手を合わせている者もいる。

涙を流している者もいる。

微笑んでいる者もいる。


サラマンダーは、どこまでも高く、高く飛び立つ。


この世界を駆け巡る。


村の上空を旋回し、森の上を飛び、草原を横切り、山を越え、海へと向かう。


その速さは、次第に増していく。風を切る音が、地上まで聞こえてくる。


やがて、サラマンダーは視界から消える。

空の彼方へと消えていく。


けれど、僕には分かる。


いつしか、その「背の荷物」は、あまりのスピードに耐えきれず、振り落とされ、地面に落ちることになる。


その落ちた先が、故人の安息の地となり、やがて花が咲く場所とされている。


白い布の中に、様々な植物の種子を忍ばせることで、故人は花となり生まれ変わる。


この考えが元となって「空葬の儀」はたびたび繰り広げられる。


美しく、神聖で、完璧な営み。

僕は、それをただ見守り続けている。


何度も、何度も、何度も。




この日の空葬が終わると、後ろから「守り手さま!」と呼ばれた。僕は振り返り、微笑みで返す。


小さな女の子だった。七つか八つくらいだろうか。大きな目をして、僕を見上げている。


「はい、どうしました?」


僕は優しく尋ねた。

少女は、恥ずかしそうに俯いてから、小さな手を差し出した。


その手の平には、煌びやかな小石が乗っていた。透明な石で、光を受けてキラキラと輝いている。


川で見つけたのだろう。


「これを、お守りにどうぞ」

少女は言った。


「守り手さまが、いつも安全でありますように」


僕は、その小石を受け取った。

「ありがとう。大切にします」


少女は嬉しそうに微笑んで、母親の元へと駆けて行った。僕は、その小さな背中を見送った。


そして、手の中の小石を見つめた。綺麗な石だ。光を受けて、虹色に輝いている。


けれど、胸の奥底で「僕は誰なんだ」と声が反響する。この石に、名前を書くことができない。自分の名前が、分からないから。


守り手という使命だけが僕を成していた。

守り手は確かに重要な役目ではあると思うのだが、いつからこの立場にいたかも定かでない不確かな記憶は、自身を時に混乱させたものだ。


昨日のことは覚えている。先週のことも、なんとなく覚えている。けれど、一年前は?


十年前は? それ以前は?


すべてが霧の中だった。まるで、ずっと昔からここにいたような気もするし、つい最近ここに来たような気もする。


時間の感覚が、曖昧だった。


心に迷いが出た時、自然と「ヤァ、テッラ」と唱えている自分がいる。


この言葉は不思議だ。口にすると心が落ち着き、混乱した思考が整理される。大きな不安が、和らぐ。


まるで、この言葉自体に力があるかのように。

一体自分が何者なのか分からないまま、使命に奮闘する姿を我ながら滑稽に思うこともある。


名前も知らず、過去も覚えていない。

ただ、守り手という役割だけを果たしているそんな自分が、時々おかしく思える。


人形みたいだ、と思うこともある。誰かに操られているような。、本通りに動いているような。

そんな時にだ、「ヤァ、テッラ」は非常に助けになる。


この言葉を唱えると、思い出す。みんな、同じなんだ、と。他のものが楽器を与えられ、向き合うような使命があるのと同時に、たまたま僕に弓が与えられ、守り手という肩書きがあるのであろう。


それでいいのだ、と。それぞれに役割がある。それぞれに使命がある。僕の使命は、守り手であること。


それ以上でも、それ以下でもない。僕は、小石を外套のポケットにしまった。そして、空を見上げた。


サラマンダーは、もう見えなかった。ただ、青い空が広がっているだけ。雲が流れている。鳥が飛んでいる。世界は、何事もなかったかのように続いていく。


あの日が来るまで——


そう、あの日が来るまでは、深く疑問には思わなかった。けれど、その日は——確実に、近づいてきていた。




次回〜巡る命〜



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