第2話 凍える囁き

「毛布をもう一枚貰えませんか」


コーヒーを受け取りながら恩田貴史はキャビンアテンダントにもう一枚毛布をお願いする。


「寒いのですか?」


隣に座る石原が心配そうに問いかける。

飛行機の空調は快適で、通常寒さを感じることはない。加えて恩田の膝にはすでに厚手の毛布が一枚置かれていた。


「うむ。君は寒くないのか」

「はい、むしろ少し暑いかなと思ってます」

「そうか、私は寒くてたまらない」


石原が「風邪ですか」と心配すると、恩田は自分の額に手を当てた。


「熱は無いようだが……調子は良くないな。何せ、あの死蝋を発見してからほとんど寝ていないから。

本当は日本に戻りたくはないのだが、学会での発表準備を考えると戻らんわけにはいかん」


「こっちは、当面ベルナー教授に任せるしかないですね。

日本にいる加奈子ちゃん達には資料まとめを進めてもらってます。なんか山荘を借りたって」


「山荘? そんなお金はないぞ」


石原は笑って続ける。


「大学から特別予算が下りたとか。なんといっても“世界的大発見”ですから。日本のマスコミが加熱してるので、山荘に籠らないと落ち着かないって言ってました」


「本当か? 単に山荘に泊まりたいだけじゃないのか?」


「さてどうでしょう。でもまあ、大学より山奥の方がイメージが膨らんで筆が進むんじゃないですか?」


恩田は不満そうに鼻を鳴らす。


「ふん。我々は小説家ではない。事実を積み上げ真理に到達する。それが使命だ。真理が環境に影響されるなどあってはならん」


「お言葉ですが、文化は環境に因って育まれます。研究対象の文化に近い環境に身を置くのは有益かと」


「ふふん。そう来たか。まあ良かろう。私は落ち着いて仕事ができれば何でも構わんがね。……ああ、ありがとう」


差し出された毛布を受け取り、恩田はミノムシのように体に巻きつけた。


「疲れた。少し眠るよ」


そう言うと恩田はすぐに眠りに落ちた。



「……む」


恩田はふと目を覚ました。

機体の微かな振動がまだ飛行中であることを教えてくれる。室内灯は落とされ、乗客の多くは眠っていた。


体が異様に冷えていた。


どれほど毛布を重ねても温かさが感じられない。

体の中心に巨大な氷が埋め込まれたような冷え方だった。


汗は冷たく粘りつく。


不快な夢を見ていた気もするが、内容は思い出せない。


варэнистагэ


「……?」


恩田は周囲を見回す。

今、確かに囁きを聞いた。

しかし声の主どころか、人影すらない。

隣の石原は静かに寝息を立てている。


恩田は静かに席を立ち、トイレへ向かった。


симобэтарэ


通路でもまた、解読不能な囁きが聞こえる。


途端、強烈な目眩に襲われた。

ぐらりと倒れかけたところを、キャビンアテンダントに支えられる。


「大丈夫ですか?」


青い目が覗き込む。

すらりとした首筋が目の前にあった。


──喰いたい。


あの白い喉元に噛みつき、血を啜りたい。

自分でも信じられない衝動に、恩田は震えた。


「ああ、大丈夫。ありがとう」


恩田は脂汗を拭い、トイレに駆け込む。

鏡に映る自分の顔は青黒い。


胃液がこみあげ──吐く。

出てくるのは赤紫の胃液ばかりだった。


ようやく落ち着き、口をゆすぎ、顔を洗う。


顔を上げた瞬間、鏡には“青白い炎に包まれたドクロ”が映っていた。


「うわ……っ!」


思わずのけ反り、背中を強くドアにぶつけた。


「どうされましたか?」


すぐさまノックと声がかかる。


「あ、大丈夫……」


もう一度鏡を見ると、ただ強張った自分の顔があるだけだ。

寝不足のせいだ、と自分に言い聞かせる。

ドアを開けると、心配顔のアテンダントが待機していた。恩田は弱い笑みを返すと席に戻った。


「飲み物をお持ちしましょうか?」


恩田は、ぶるりと身を震わせ、「水を一杯……いや、お湯で」と答えた。


しばらくしてアテンダントが戻り、コップを差し出した。

コップを持つ白い手。

恩田の目はその“手”に吸い寄せられた。


熟れたチーズのように、どこか湿り気を帯びた白い肌。

甘い香り。


再び、衝動が湧きあがる。


──喰いたい。


理解不能の囁きが耳でざわつく。


кураэ мусаборэ

хиктгрэ кураицуксэ


世界が回転し始める。

耳鳴り。

こめかみの拍動。


五感が“反転”する。

寒さが熱へ、嫌悪が欲望へ。


恩田はアテンダントの手にかじりついた。

響き渡る悲鳴。

鉄の味が広がり、続けて腕に噛みつく。


甘い。

暖かい液体が喉を満たす。


「おおおぉ……!」


快感が全身に走り、

手足は青白い炎をあげて燃える。


そして──


バキン。


枯れ枝のように足が折れた。

倒れ、手をつけば手も砕ける。


四肢を失いながらも、恩田はのたうち、歓喜の悲鳴をあげた。


「おおおおおおお

 うああああああぁ」


「うわぁ!」


恩田は悲鳴を上げて飛び起きた。


そこは機内の座席だった。

現実。

──夢だったのか?


理解するのに数秒かかった。

毛布は足元にずり落ちている。


手が震えていた。

恐怖か寒さか、自分でもわからない。


アテンダントが心配そうに見ていたが、恩田は手を振り「大丈夫」と示した。



空港のタクシー乗り場。


「本当に一人で大丈夫ですか?」


石原が心配そうに尋ねる。

恩田は無言で頷いた。

タクシーに倒れ込むように乗り込む。


「先生、これを」


石原は手鞄を渡す。


「ありがとう。……まあ、一日寝れば良くなるだろう」

「二、三日ゆっくりしてください。準備はこっちで全部やりますから」

「ああ、すまない。頼むよ。みんなにも宜しく」


タクシーが去り、石原は自分の右手を見つめた。


教授の手は氷のように冷たかった。

あんな状態の教授を見るのは初めてだった。


(早く良くなればいいが……)


石原はシャトルバス乗り場へ歩いていった。

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2025年12月26日 23:00
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ビラカナ・ウェンディゴ ~ 呼び覚まされた氷の悪霊 風風風虱 @271m667

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