ビラカナ・ウェンディゴ ~ 呼び覚まされた氷の悪霊

風風風虱

第1話 聖地にて

見上げると、はるか頭上から川の水が流れ落ちてくる。

大瀑布というにはあまりにもささやかだが、それでも日本ではまず見られない規模の滝だ。

さすがアメリカ大陸というべきか。


恩田おんだ貴史たかしはしばらく滝を見上げていたが、

やがて視線を滝の根元に口を開ける洞窟へと移す。


「ここがバルナカハルか」


恩田は感慨深げに呟いた。


「アガホ族の聖地ですね、教授」


隣に立つ石原いしはらも、やや興奮した口調で答える。


「“聖地”とは少し意味合いが違うよ、石原君。

確かにアガホの言葉でバルナカハルは“踏み入れては行けない場所”という意味だ。

便宜上、我々はそれを聖地と呼んでいる。

だが、このバルナカハルにはもう一つの呼び名がある。


ビラカナ・ウェンディゴ。

ウェンディゴの風穴だ」


「ウェンディゴとは、オジブワ族で伝えられている、あのウェンディゴですか?」


「そうだ。さ迷う森の精霊、冬の寒気の悪霊、ウェンディゴだ──」


洞窟は少し登り坂になっていた。

恩田と石原の二人は弱々しいライトを頼りに、奥へ奥へと進む。


「見たまえ、石原君」


恩田は足を止め、洞窟の壁を指差した。


「壁画……ですね」


壁には曲線と図形が彫り込まれ、明らかに人の手によるものと分かる。

中央に丸と四角、その周囲に歪んだ楕円が二重、三重に重ねて描かれていた。


恩田はライトを右へ滑らせた。

新たな壁画が現れる。


人型の図形に、楕円が重なるように刻まれていた。

その周囲には複数の人影が描かれている。


「闘いの絵……ですかね?」


「いや、違うな。中央の図形……肩口に丸いものがついているだろう」


指摘に石原は眉を寄せつつ頷く。


「恐らくウェンディゴ憑きを表している」


「ウェンディゴ憑き……」


「ウェンディゴに取り憑かれた者は人肉を求めて人を襲い、最終的に仲間に処刑される──アガホの伝承だ。

そして、私の推測では、この先にそのあかしがあるはずだ」


恩田は歩を進めた。石原も黙って続く。


やがて視界が大きく開けた。

そこは球形の空間で、壁一面に未知の紋様が刻まれている。


中央には大きな石の台があった。

まるでセミダブルベッドのような形状だ。


「なんですか、これは?」


「処刑台だ。そして──あっちが犠牲者の成れの果てだ」


空間の片隅には、無数の頭蓋骨が積み重なっていた。


恩田は突然、小声で言う。


「静かに……何か聞こえないか?」


洞窟の奥から、空気が漏れるような微かな音がした。

ライトで奥を照らす。しかし、そこは行き止まりのはずだった。


念入りに探ると、石が人工的に積み上げられた箇所が見つかった。


「石原君、手伝ってくれ!」


二人は石をどかし続け──

30分後、小さな横穴が現れた。


「先生、これは……?」


「こんな風に隠しているということは、重要なものがあると思ったほうがいい」


「隠していた……? いえ、自分には“塞いでいた”ように思えました。なにか、外に出してはいけないものを封じているような……」


不安げな石原に、恩田はにやりと笑った。


「ならばますます見たくなるだろう? 私は行くよ。怖ければ、君はここで待っていなさい」


そう言うと恩田は、迷いなく横穴に体を滑り込ませた。

一人取り残された石原はしばし逡巡したが、覚悟を決めて続いた。


四つん這いで横穴を進むと、やがて別の小空間へ出た。

幅は二人が並ぶのがやっとだった。


その奥に、恩田が立っていた。

そして──恩田の横に、白い男の顔があった。


壁に石の杭で打ちつけられ、歯を剥き出しにしたまま、

まるで今にも叫び出しそうな表情で。


「うわっ──!」


石原は悲鳴を上げて尻餅をつく。


「落ち着きたまえ。これは死蝋しろうだ。

低温・高湿度で遺体が蝋化する現象だよ」


「死蝋……は知っていますが、これが本当に死蝋だとすると……」


「うむ。これは紀元前のものだ。世界最古の死蝋かもしれん!

さあ石原君、忙しくなるぞ。記録だ、記録!」


恩田は興奮しきっており、石原と共に必死で記録を取った。

洞窟を出たのは4時間後だった。


「急ごう」


元気な恩田と対照的に、石原は疲れ果てていた。


森を歩いている途中──


вагсимобэтарэ


恩田の耳に、囁きが聞こえた。


「石原君、今なにか言ったか?」


「いえ、何も……」


囁きは背後から。

しかし振り返っても誰もいない。


森は不気味なほど静まり返っていた。


(ウェンディゴ……?)


馬鹿げている、と恩田は思考を打ち消す。


洞窟前のぬかるみに残る足跡。


恩田と石原のもの──

“入る時の2つ”

“出た時の2つ”


そして──


もう一つ。


その足跡には、うっすら霜が降りていた。


それは二人の後を追うように、森の奥へと消えていた。

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