4.発芽

「お値段をつけていただきたいのは、こちらです」


 彼女が指さしたものを見て、私は小さく息を吐いた。

 

 太い支柱に一人、男が縛り付けられている。その姿は腰を覆う布以外には何も身に着けておらず、代わりに口には、頑丈そうな錆びた口枷くちかせが嵌められていた。そして理由は分からないが、床には左右に大型のライトが設置され、彼の痩せた身体を不自然に明るく照らしていた。そしてさらに奇妙なことに、縛られた彼の足元は、水の入った長方形の、大きな水槽に浸されていた。


「いかがでしょうか?」


 問いかける彼女の横に立ち、私は仔細に男を観察した。一瞥する限りでは、単なる悪趣味なオブジェとしか、言いようがない。衰弱しているのか、意識は混濁したようにも見え、その視線はどこまでも虚ろだ。


(薬物・・・・・・? 何にしろ、これでは・・・・・・)


 売り物にならない。この程度では。

 

 私はまた、小さく息を吐いた。と同時に、気が付いた。彼女の話は、まだ終わっていない。少し間を置いて、私は彼女のほうに向きなおった。


「上原様」


「はい」


「失礼ですが、先ほどのお話の続きを、うかがってもよろしいでしょうか」


「ああ」

 

 再び彼女は、口元に手をあてた。癖なのだろうか。いや。

 これは、笑っていないのを、隠しているのだ。


 そして、彼女は話し始めた。



 あれは、父が亡くなって六年ほど経ったときのことでした。当時私は、中学校の一年目を終える間近でした。

 母がこの男を会いに行き、やがて連れてくるようになったのは、その頃からでした。初めて顔を合わせたこの男の視線がどこに向かっているのかを悟った私は、あの男とだけは別れてくれと、泣いて母に懇願しました。

 けれどその願いに、母は耳を傾けることはありませんでした。


 家に、いたくなかった。夜を過ごした母とこの男の気配が濃厚に漂う家には、もはや父の痕跡はひとかけらも残されておりませんでした。ええ、形見も、お仏壇でさえもです。唯一残ったものといえば、預貯金と不動産、保険金くらいでしょうか。

 私腹を肥やすという言葉の意味を、私は母と、この男のふるまいから、いやというほど見せつけられました。身の丈に合わないブランド物を買いあさり、わけのわからないギャンブルに金銭を投じ、酒の匂いを暴力的にまき散らす。害悪の限りでした。


 私の唯一の居場所は、父方の祖父母の家だけでした。母方の祖父母は、母と折り合いが悪く、すでに絶縁していたからです。祖父母は、いつも言っていました。


「わしらがいなくなっても、ゆかりには味方がおるからな」と。


 母とこの男が籍を入れたのは、まもなくのことでした。私の願いは、最後まで聞き入れられませんでした。いいえ。むしろ、最初から耳に入れるつもりなど、この二人にはなかった。私はその理由を、文字通り、身をもって知ることになったのです。


 そこまで語った彼女の顔からは、笑みは削げ落ちていた。笑ってはいる。けれどそれは、親愛の笑みではなく、あざけりや、悔恨の色を濃く映した、冷たい笑みだった。彼女は続けた。


 どんな虫が身体を這おうと、けがされようと、この男に比べればなかったことに等しいでしょう。大人の男に今よりも小さな私が敵う道理など、とてもありません。全てが終わった翌日、私は最後の望みを託して、母に真実を告げたのです。

 

 けれど、母の答えは信じられないものでした。『我慢しなさい』『そうしないと、あの人が出て行ってしまう』。


 最初から、どちらもそのつもりだったのです。知らなかったのは、私だけ。いいえ、本能は、知っていたのです。けれど、避けれなかった。どこにも避ける道など、描けなかったし、実際、どこにあったというのでしょうね。

 まもなく、祖父母も相次いで亡くなりました。一人娘だった母の意向で、二人とも直葬という扱いでした。私は、最後の居場所さえ失い、満足に別れを告げることさえ、叶わなかったのです。残ったのは、忌まわしいばかりの、母とこの男が暮らす、あの家だけ。


 それから私は、生きているだけの屍になりました。何も考えないでいれば、そのうちに終わる。いつものことだ。私は人ではない。ただの人形。何も感じない。

 私が膝を抱えて蹲る暗い部屋の下で、母とこの男の嬌声が聞こえてくる。やがて、あの男が階段を上がってくる。その繰り返しでした。母が、種を吐くまでは。


「八代様」


「はい」


「この二人の企みを、私は身をもって知ったと申し上げました。けれどそれは、彼らも同じなのです。私、とてもとても」


 それが、うれしくて。


 左手に籠を持ち替えた彼女が、男のほうへと近づく。そして男の脚が浸る水槽の中に、母親が吐いた種を流し込む。


「お噂は、聞いております。八代様の顧客の方は、とても貪欲で、常に底なしの腹を空かせていると。悪癖を持った好事家こうずかを相手にするのは、大変でしょう」


 半分ほどを流し入れたところで、彼女は手を止めた。そして、こちらを振り向いて言った。


「ご安心くださいませ。これはお気に召していただけるかと思いますので、少しの間、お待ちください」


 彼女が私にそう告げてまもなく、いくつかの種が割れ、中から芽が飛び出した。そしてその芽は、意思を持ったかのように、すべて真っすぐに男の皮膚の下に向かって、突き進んでいく。声を出せない男の悲鳴が、蔵の中に弾けた。


 


 







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