君と僕の、嘘つきな約束
トムさんとナナ
第1章:坂の途中の聖域
「ねえ、聞いた? 2組の佐藤くん、振られたんだって」
「うっそ、マジで? 結構いい感じだったのに」
放課後の茜坂は、いつだって誰かの噂話で溢れている。
テストの点数、進路の不安、そして誰と誰がくっついた、離れたという恋愛沙汰。
夕暮れのオレンジ色に染まった坂道を下りながら、私は耳を塞ぎたい衝動をこらえる。
他人の感情の残骸が、アスファルトから立ち上る熱気のようにまとわりついてくる。
息が詰まる。早く、あそこに行かなければ。
私は足早に路地を曲がり、レンガ造りの建物の前で立ち止まった。
入り口には、自分の身長よりも大きな古びた古時計が鎮座している。
私は重たい木のドアに手をかけ、逃げ込むようにしてその中へ滑り込んだ。
カラン、コロン。
ドアが開くと同時に、世界が変わる。
「チク、タク、チク、タク……」
「ボーン、ボーン」
「カチ、カチ、カチ……」
そこは、音の洪水だった。
壁一面に掛けられた大小さまざまな柱時計、棚に並ぶ無数の置時計。
それらが一斉に、しかし全くバラバラのリズムで時を刻んでいる。
秒針の音が重なり合い、ズレて、また重なる。
それは音楽というにはあまりに無秩序で、けれど不思議な心地よさを持った不協和音(ノイズ)だった。
この圧倒的な「音のカーテン」が、外の世界の噂話や喧噪を完全に遮断してくれる。
ここでは時間は一方向に流れない。
ただ、澱んでいる。
私は肺いっぱいに、古い紙と焙煎珈琲の混じった匂いを吸い込んだ。
「……遅い」
店の空気が震えるほどの時計の音の隙間から、低い声が聞こえた。
一番奥、L字の壁に囲まれた角席。
入り口からもカウンターからも死角になる、私たちの「聖域」。
「ごめんごめん、ホームルームが長引いちゃって」
私はローファーのかかとを鳴らしながら、その席へ向かう。
そこには、不機嫌そうに眼鏡の位置を直す高橋翔太がいた。
テーブルの上には、既に半分ほど減ったナポリタンと、広げられた回路図。
「また機材トラブル?」
「ああ。メインのアンプが飛んだ。予備に切り替えたけど、接触が怪しい。……部長のやつ、『叩けば直る』とか昭和の家電みたいなこと言いやがって」
「ふふ、翔ちゃんらしい愚痴だね」
「学校では『翔ちゃん』と呼ぶな。……あと、笑い事じゃない」
翔太はフォークでナポリタンを巻き取りながら、私を睨む。
でも、その瞳に険しい色はもうない。
彼もまた、この店に入って、私と二人きりになった瞬間に「演劇部の頼れる裏方チーフ」という仮面を外しているのだ。
「はい、おまたせ」
無口なマスターが、音もなく私の前にクリームソーダを置いてくれた。
鮮やかな緑色の液体の上で、バニラアイスが少し溶けている。
「ありがとうマスター。……でね、翔ちゃん。私、なっちゃった」
「何をだ?」
「文化祭のヒロイン」
翔太の手がピタリと止まる。
回路図に向けられていた視線が、ゆっくりと私に向けられた。
「……マジか」
「うん。断れなかった」
「まあ、妥当だな。お前、舞台度胸だけはあるし」
「『だけ』は余計! ……でもさ、困っちゃったよ。私、まだどんな話か全然知らないんだもん」
私はストローでアイスを崩しながら、わざとらしく溜息をついた。
「今日の部活でも、脚本担当のサボり魔・田中くんが『現在鋭意執筆中!』って叫んで逃げてったし。オーディションも即興(エチュード)だったから、役作りも何もないよ」
「ああ、田中のやつか……あいつ、また遅れてるのか」
翔太は呆れたように頭を抱えたが、すぐに手元の手帳をパラパラとめくった。
「あらすじなら、俺は知ってるぞ」
「えっ、ずるい! なんで翔ちゃんだけ?」
「ずるくはない。照明と音響のプランニングを先に立てなきゃいけないから、無理やりプロットだけ吐かせたんだ。……セットの転換とか、早めに把握しておきたいしな」
そう言って、翔太は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「タイトルは『透明な壁の向こう側』。……互いに姿は見えているのに、物理的に触れ合うことができない世界に住む男女の話だそうだ」
「触れられない……?」
「ああ。ガラス一枚隔てたような世界で、二人は恋をする。……結ばれることはないと知りながら」
ドキン、と心臓が嫌な音を立てた。
翔太の言葉が、妙に生々しく響く。
結ばれてはいけない二人。
触れたくても、触れられない二人。
不意に、店内の時計の音が遠のいた気がした。
私の意識は、10年前のあの雨の日に引き戻される。
『いい加減にしてよ! あなたなんかと結婚しなければよかった!』
『こっちの台詞だ! お前の顔なんか二度と見たくない!』
ガシャン、と何かが割れる音。
大好きだったパパとママが、鬼のような形相で罵り合う声。
私はリビングの隅で耳を塞ぎ、震えることしかできなかった。
息が上手く吸えない。視界が涙で歪む。
『好き』という感情は、いつか必ず壊れる。
そして壊れた時の破片は、鋭利な刃物になって心を切り刻む。
怖い。
怖い。
誰かを好きになるのが、怖い。
『……おい、陽菜。大丈夫か?』
震える私の肩に、温かい手が触れた。
隣に住んでいた翔ちゃんだ。
まだランドセルを背負ったままの彼は、泣きじゃくる私を見て、ひどく困惑していた。
どうしていいか分からない。
でも、放っておけない。そんな顔で。
私は藁にもすがる思いで、彼の手を握りしめた。
爪が食い込むほど強く。
『翔ちゃん……』
『うん』
『私、もうあんなの嫌だ。パパとママみたいになりたくない』
『……うん』
『だから、お願い。翔ちゃんとは、ずっと一緒にいたいの。ずっと仲良しのままでいたいの』
幼い私は、過呼吸気味に息を継ぎながら、必死に訴えた。
この温かさを失いたくない。
でも、もしこの感情が「恋」に変わってしまったら、いつかパパたちみたいに憎しみ合う日が来るかもしれない。
それが何より恐ろしかった。
『だから、絶対に、私のこと好きにならないで……っ!』
それは、子供の理屈だったかもしれない。
でも、当時の私にとっては、生きるための必死の防衛策だった。
翔ちゃんは驚いたように目を見開いていた。
私の言っていることの矛盾や、理不尽さを、幼い彼が完全に理解できたとは思わない。
けれど、彼は私の手が小刻みに震えているのを見て、覚悟を決めたように小さく頷いた。
『わかった』
彼は私の小指に、自分の小指をしっかりと絡めた。
『約束する。……俺は、陽菜の敵にならない。ずっと今のままだ』
あれは、私を安心させるための優しい嘘だったのかもしれない。
でも、その約束は10年経った今も、呪いのように私たちを縛り続けている。
「……おい、聞いてるか?」
翔太の声で、私はハッと我に返った。
目の前には、心配そうにこちらを覗き込む今の翔太がいる。
「あ、ごめん。……どんなラストになるのかなって、考えてて」
「まだ脚本ができてないんだ、ラストなんて田中にも分かってないだろ」
翔太は鼻で笑って、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
そして、ふと真面目な顔に戻り、ポツリと言った。
「ま、役作りには苦労しないんじゃないか?」
「え?」
「『近くて遠い』関係性だろ。……今の俺たちみたいだしな」
心臓が跳ね上がった。
時が止まったような錯覚。
数え切れない時計の音が、一瞬だけ消え失せる。
「な、なに言って……」
「冗談だ」
翔太はすぐに意地悪そうな笑みを浮かべ、手帳を閉じた。
「物理的な壁はないけど、お前が台本も読まずにのん気にクリームソーダ飲んでるのを見ると、意識の壁を感じるって意味だ」
「もうっ! 翔ちゃんのいじわる! 私だって不安なんだからね!」
「はいはい。……ほら、そろそろ行くぞ。予備校の時間だ」
翔太が伝票を掴んで立ち上がる。
私は慌てて残りのクリームソーダを飲み干した。
冗談に決まってる。
彼は論理的で、誰よりも「約束」を重んじる人だ。
10年前のあの指切りを、彼が破るはずがない。
「ごちそうさま、マスター」
店を出ようとすると、一際大きな古時計が「ボーン、ボーン」と時を告げた。
その重たい音は、まるで「おままごとは終わりだ」と告げているように聞こえた。
外に出ると、夕闇が迫っていた。
この心地よい聖域から一歩出れば、私たちはまた「仲の良い先輩後輩」を演じなければならない。
私は翔太の背中を見つめながら、スカートのポケットの中で、あの日の小指をそっと握りしめた。
この約束が嘘に変わってしまう日が、いつか来るのだろうか。
それとも、嘘をつき通すことが、私たちなりの「真実」なのだろうか。
次の更新予定
君と僕の、嘘つきな約束 トムさんとナナ @TomAndNana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。君と僕の、嘘つきな約束の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます