第3話 「どうでもいい」
翌日の朝、松永は少し緊張しながら学校へ来た。もしかしたら石井がいるんじゃないか。そんな気がしたからだ。
けれど、予想に反して石井は教室にいなかったし、朝のホームルームが終わっても姿を現さなかった。……少しガッカリした。
授業が始まってもぼんやりとしてしまい、内容が全く頭に入ってこない。
今日は遅刻か欠席か。来ても教室にほとんどこないのだからそんなに変わらない。それなのに、窓の外を自然と見てしまう。
一限目が終わって二限目が始まり、三限目に入っても石井はこなかった。今日はもうこないんだろうか。そう思い始めた頃、正門にビニール傘が見えた。あっと思う。
昇降口に向かって近づいてくるそれの中に、赤色が見えた。間違いなく石井だ。
いつもの光景なのに、やたらとそわそわしてしまう。今日はこのまま教室にこないだろうか。そんなことを考えている自分に驚いた。来たからといって、俺にはなんの関係もないはずだ、と心の中で否定する。
その後、昇降口へ消えていった石井が教室にくることはなかった。
「まっつん、今日は珍しく購買?」
「ああ……」
昼休み、松永は購買へ来ていた。鞄の中に弁当はあったが、もしかしたらあいつが……石井がいるかもしれないと思ったからだ。
関口と列へ並びながら、興味もないパンを一緒に眺める。時々、後ろを振り向いて石井を探したが、見つけることはできなかった。
順番が回ってきて、松永は何を買うか迷った。特に食べたいものがあって来たわけではなかったから。
後ろには順番待ちの長蛇の列があり、あまりもたもたするわけにもいかない。何も考えず、いつも関口が買っている焼きそばパンを手に取ると、ケースの中は空になった。
「ラッキーだったな!」
同じく焼きそばパンを手に入れた関口が嬉しそうに笑う。
「なんか罪悪感が……」
「早い者勝ちなんだから、気にすんなよ」
背中をバシバシと叩かれ、松永はつんのめりながら歩いた。弁当と焼きそばパン、両方食べれば胃袋がはち切れるのは目に見えていた。
どうしようかと悩みながら、松永は列の横を通りすぎようとした。そこで、見覚えのある赤色が見えた。思わず振り向くと、石井が列に並んでいた。いつの間に、と驚く。
「まっつん? どした?」
立ち止まった松永を気にして関口も足を止める。
石井に声をかけるか悩んだ。話しかける用もなければ、友達でもない。昨日の傘もタオルも捨てていいと言った。今更返せというのも嫌みだし、恩着せがましく蒸し返すのもどうかと思った。
でも、こうして顔を合わせることすら石井とは難しい。滅多にないチャンスを逃すのは勿体ない。かといって、急に話しかけられても相手は困るだろう。どうしたらいいんだ、と八方塞がりになる。
悩んでいるうちに、焼きそばパンを持つ手に力が籠った。パンの柔らかい感触に気がついて、そうだ、と思う。
足早に歩み寄り、石井の横に立った。列に並んでいた何人かが、「横入りか?」と怪訝な顔をする。
「石井」
名前を呼ぶと、石井は目だけを松永に向けた。
「今から昼飯?」
「……」
返事はない。
「よかったら、これ。その……弁当あるの忘れてて、買っちゃったんだ」
差し出したパンを石井が受け取る気配はなかった。
「いらないなら、いいんだけど……」
言葉が尻すぼみになっていく。
周りから奇異な視線を向けられて、いたたまれない。
返事くらいしてくれればいいのに、いつまで経ってもその思いが伝わることはなかった。
「急に話しかけてごめん、じゃあな」
踵を返し廊下を走る。恥ずかしくて、早くその場から立ち去ってしまいたかった。そして、話しかけるんじゃなかったと、深く後悔した。
関口が後ろから「まっつん!」と追いかけてくるのが聞こえた。それでも止まらなかった。
いつまでも、皆の視線が追いかけてきているようで怖かった。だから振り向かなかった。
教室に戻った後、松永は関口に謝った。すると関口は「全然いいって!」と、それ以上は何も言わなかった。そのことに、松永はほっとした。
結局、持ってきた弁当を食べたら腹が膨れて、焼きそばパンはそのまま鞄にしまった。
そして午後からの授業を淡々と受けた。
帰り道もいつも通りだった。昼休みのことは胸の奥でずっと引っ掛かっていたけど、関口は変に蒸し返したりしなかったし、上野も田村も知らないようだった。
家に帰り、服も着替えずダラダラと過ごしていると、不意に松永は明日提出の課題があることを思い出した。数学の課題で、得意科目だからすぐに終わるだろうと後回しにしていたものだった。
面倒に思いながらも鞄の中のファイルを漁る。だけど、どれだけ探しても課題を入れていたファイルが見当たらなかった。
そういえば一度、プリントを失くした上野に言われてコピー用に貸した。その後は確か……机に入れたような気がする。もしもそのままなら、学校に一度取りに行かなきゃならない。
はあっと松永は盛大なため息を漏らした。今日はもう学校へ行きたくないのに、そんな時に限ってこれだ。
松永は自分の失敗に落ち込みながら鞄を持って部屋を出た。階段を降りると母親が現れて「どうしたの」と聞いてきた。
「今から忘れ物取りに行ってくる」
「あら、今ちょうど雨降ってるわよ」
言われて玄関のドアを少し開いた。ザーザーと強めの雨が降っている。帰る時は降ってなかったのに、と余計に落ち込む。
「……いってきます」
傘を持って、母親に見送られながら家を出た。
とはいえ、足取りはとてつもなく重い。できるなら行きたくない。いっそ課題は諦めて怒られたほうがマシか、とも考えるが今更だった。足元はすでに雨が侵食してきている。
トボトボと雨の中を歩き、ようやく学校についた。運動部もグラウンドからはすでに撤退していて閑散としている。
昇降口まで俯いていたせいで気づかなかった。傘を畳んで振り向くと、そこには石井が立っていた。ザーっと一瞬、雨の音だけが二人の間に響いた。
我に返った松永は傘を傘立てに置き、急いで靴を履き換えた。そしてすぐさまその場を離れた。気まずかった。昼間のことを思い出すと、それだけで顔が熱くなっていく。
廊下を足早に歩き、教室についた。自分の机の中を見ると、予想通りファイルがあったことに安堵する。
ファイルを鞄の中にしまう時、焼きそばパンが見えてまた思い出した。昇降口に向かうのが、とても憂鬱になった。
できるなら顔を合わせたくなくて、少し時間を潰してから戻ることにした。その間に提出用の課題をやってしまおうと、机の上に広げる。
何分くらい経ったか、松永が課題を終えて帰り支度をしていると、教室に運動部の男子が入ってきた。クラスメイトだが、何度か話したことがある程度でよくは知らない。
「あれ、松永じゃん、何でいんの?」
「忘れ物取りに。そっちは部活?」
「そう。つっても、外使えないからほとんど筋トレばっかだったけど」
「大変だな」
松永が苦笑いすると男子はわははっと豪快に笑った。
「もうほとんどの人、帰っちゃったよ。俺は教室の鍵閉めにきてるんだけど……」
そこでようやく自分が邪魔物だったと松永は気がついた。
「ごめん、俺も帰るから鍵はやっとくよ」
「え、マジ、いいの? やった!」
男子は嬉しそうに笑うと鍵をポイっと松永のほうに投げた。
「サンキュー! また今度ジュースでも奢るよ」
「いいってそんなの」
「じゃあなー」
「おう」
ヒラヒラと手を振って見送った後、松永は教室の鍵を閉めて職員室に持って行った。
そのまま昇降口へ向かうと、そこに人の姿はなかった。ホッとしたような寂しいような複雑な気分だった。
靴を履き換え、傘を手に取る。入り口を少し出て傘を広げると、壁の影からぬっと人が出てきた。思わず振り向くと、それは石井だった。
何でまだ帰ってないんだ、という疑念と、今すぐ逃げたい、という衝動が螺旋のように絡み合う。
目の前に立っても、石井は何も言わない。昼間のことも謝らない。それなのに、一歩も動こうとはしなかった。
どうしたらいいんだ、と松永は考える。どう考えても昼間のことは石井が悪いし、自分は嫌な気分にさせられた。人前で恥ずかしい思いもした。関わりたくないと思うのも当然だった。
それなのに、こうして目の前に立たれてしまうと、まるで石井が自分のことを待っていたみたいで勘違いしそうになる。
松永はもともと家に帰っていたし、学校に来たのもたまたまで、石井のためじゃない。それどころか会いたくなくてこんな時間まで課題をやって時間を潰した。
それなのに、この男が待っていたような気がしてならない。それは自分の妄想なのか願望なのか……。
答えはわからない。わからないけれど、もし待たせていたのなら、悪いことをしたと思う。たとえそれが、石井が勝手にやっていたことだとしても。
「……まだ、帰ってなかったのか」
その一言を絞り出すのに、松永は随分と時間がかかった。
「もう帰らないと迷惑だぞ」
「…………っ」
何か言いたげな雰囲気はする。急かしたくないけれど、最終下校時刻のアナウンスが流れ出した。
「とりあえず、帰ろう。歩きながらでも話せるだろ」
傘をさして昇降口の階段を降りる。頭上の雨音が強くなっても、後ろからついてくる気配がなくて、松永は振り向いた。
「帰らないの?」
「……傘がない」
「え」
「だから、あとで走って帰る」
「でも、今朝は傘をさして……」
そこまで口に出てから、松永は気づいた。昨日も、石井は傘をさしてきていたはずだ。なのに帰りは松永と同じように濡れて雨宿りをしていた。
そして今日も、傘がないと言う。これは一体どういうことなのか。しばらく考えてから松永はハッとした。
「もしかして、盗まれてるのか?」
「……」
「いつから? 毎日か?」
「……」
石井は口を引き結んだまま黙り込んでいる。
「黙っててもわからないだろ、答えろよ」
松永が詰め寄ると、石井は呟くように言った。
「……覚えてない。でもほぼ毎日、だと思う」
その答えを聞いて、松永は額を押さえた。どうしてこんなことに、と思う。
「先生……高崎には言ったのか?」
「……」
石井が再び黙り込む。どうやら言っていないようだった。
「なんで言わないんだっ」
「……どうでもいい」
「は?」
「別に、どうでもいいよ」
「どうでもいいって……」
「濡れて帰るのは面倒だけど、それもどうでもいい。学校のことも、そこにいる奴らのことも……」
その中に、自分も含まれているんだろうかと、松永の胸はチクリと痛んだ。
「俺がどうでもいいって思うように、周りの奴らにとっても、俺はどうでもいい存在だ」
石井がポツリポツリと呟く。
「お互いどうでもいい相手のために感情を割くなんて、時間の無駄だろ?」
松永は何も言わなかった……言えなかった。
「だから松永も、どうでもいい俺のために何かしなくていい。気にしなくていいんだ」
松永は石井の言葉を受け止め、考えた。
自分はずっと、石井のことを見ないふりしてきた。他の生徒と同じだった。そしてそれは石井も同じだった。石井もずっと誰も見てなどいなかった。
だけど今日は違った。石井という存在を松永が認識したからだ。そして、それは一度そうなってしまうと、もう見て見ぬふりなんてできない。
きっと明日も明後日も、どれだけ拒絶されても、変わることはない。それがいい方に転んでも悪い方に転んでも、心の中に石井という存在はあり続ける。
だから上野は石井を無視することができなかったのかもしれない。無視して、いない者にはできなかったんだと、松永は初めて気がついた。
それが決していいことだとは言わない。無抵抗の人間に理不尽に怒りをぶつけるのはフェアじゃないからだ。
それでも、空気のように扱う人間……自分よりはマシだったんじゃないかと思う。
「石井」
名前を呼ばれて、石井はそろりと松永を見た。
「帰ろう」
そう言うと、石井が困ったように眉を下げた。
「傘、入れてやるから帰ろう」
「……っ」
唇を噛み締めて、石井は黙って頷いた。そしておずおずと傘の中に入ってきた。背が高い癖に、猫背で、なんだか少し可愛かった。
それからの帰り道、松永はポツポツと話した。
傘のことは高崎に相談しよう。雨がひどい時は、一緒に帰ろう。遅刻してもいいけど、たまに教室にきてくれたら嬉しい。購買で、もしも関口が後ろに並んでいたら、焼きそばパンを譲ってやってほしい。
くだらない内容でも、石井は黙って聞いてくれた。それだけのことが、松永の心を温かくした。
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