第2話 「焼きそばパンの味」
その日、二限目の授業は英語だった。苦手科目だということもあり、真面目に聞かなければいけないと思いつつも、自然と欠伸が出る。
ここ数日、雨が続いているせいで、松永の座る窓際の席でも日当たりは悪く、教室内は全体的に暗い雰囲気だった。そのせいか、余計に眠気を誘発されている気がする。
二限目が始まって、もう何度目かもわからない欠伸がでた頃、正門から昇降口へ歩いてくるビニール傘が見えた。傘の中の色が透けて、こんな天気でも派手な赤髪が目を引いている。
「重役出勤かよ」
チッと舌打ちをしながら、前の席に座る上野が不満そうに呟いた。
上野は前に、やたらと石井に噛みついていた時期があった。それも石井が上野のことを無視し続けていたせいだが、エスカレートする前に松永が高崎に言って止めて貰ったことがある。
もちろん、松永がチクったことは伏せて貰った。バレれば今度は自分が標的にされるのは目に見えていたし、面倒だったからだ。
それ以来、上野は直接的に石井に何かすることはなくなったが、何かにつけて苛立ちを募らせているようだった。
ようやく昇降口へ消えた石井に上野はまた舌打ちをした。何がそんなに気に入らないのか、松永にはよくわからなかった。
昼休みになっても、石井が教室に姿を現すことはなかった。もともと石井は遅刻も欠席も多く、お世辞にも真面目な生徒とは言えなかった。
教室にいないこともよくあることで、だからといって誰かが迎えに行くことはない。教室の中は石井がいてもいなくても、変わることはなかった。
購買のパンを手に戻ってきた関口が、松永の前の席に座った。その席の持ち主、上野は、田村と一緒に別のクラスへ行っているようだった。
「焼きそばパン、売り切れだったー」
関口が悔しそうに戦果報告をしてくる。
「ドンマイ」
「代わりにまっつんのウインナーくれない?」
「やだよ」
「ケチくせー」
関口が文句をブーブー垂れながらメロンパンに齧りつく。
「そういえば、さっき石井見た」
石井、という言葉に松永は咀嚼していた卵焼きを丸飲みしてしまった。胸のあたりにつっかえて気持ちが悪い。
「購買で?」
「そう。あいつが最後の焼きそばパン買っていきやがった……」
唇を尖らせて不満げに語る。
「飯食うなら授業くらい受けろっての。そうじゃないと納得できねー」
「焼きそばパン一つでそこまで言うか」
松永の一言に関口はちっちっと人差し指をリズミカルに振った。
「まっつんは分かってないなぁ。モチベーションに関わるから。焼きそばパンが食えるから学校来て授業受けようってさ、そういう些細な楽しみがあるわけよ」
鼻息が出そうなくらい自慢気に語る関口がおかしくて、腹を抱えて笑った。
中身のないくだらない会話を楽しんだあと、次の授業の十分前に松永はトイレに席を立った。
用を足して手を洗いながら松永はふと、石井は焼きそばパンを買った後、どんな風に過ごしたんだろうと考えた。
自分や関口のように誰かと喋って、笑いながら食べたんだろうか。それとも、一人で黙って食べたんだろうか。石井の食べた焼きそばパンは、どんな味だったんだろう。関口と同じ味だったのか……。
想像すると少しだけ寂しいような気がした。石井もそんな風に感じるんだろうか。
どうしてこんなことを考えてしまうのか、松永は自分でもよく分からなかった。
放課後、松永はいつもの四人グループで家路についた。途中まで一緒に帰り、駅に着く前に松永だけ先に別れる。
昼休みの後も雨はしばらく降っていたが帰る頃には止んでいてラッキーだった。今朝は雨が降っていなかったおかげで傘を持っていなかったからだ。折り畳み傘は昨日使って湿っていたので、鞄に入れるのが嫌で置いてきてしまった。
今はまだ止んでいるとはいえ、いつ降りだしてもおかしくない雲行きだ。さっさと帰ってしまおうと足早に歩く。
途中、頭上に水滴の落ちる感触があって、嫌な予感がした。それから間もなくして雨足はだんだんと強くなっていき、松永は仕方なく近くの軒下に駆け込んだ。
走ったつもりなのに、全身びしょ濡れだった。寒さに震え、くしゃみをする。
いっそ家まで走ったほうがマシだろうか。どうせ濡れているならそんなに変わらない気がしてきた。帰ってさっさとシャワーを浴びたい。
そうしよう、と決意して顔を上げると、前方から誰かが走ってくるのが見えた。石井だった。鞄で守っていたおかげか、髪はそこまで濡れていない。
前を見ていなかったのか、松永の目の前で足を止めるまで気付かなかったようだ。少し目を丸くしていた。……ような気がした。
「大丈夫か」
思わず声をかけていた。
「……」
石井はやっぱり何も答えなかった。黙って隣に並ぶと、同じように雨宿りをし始めた。
走って家に帰るつもりだったのに、急にその気が失せた。
声をかけるなら今なんだろう。でも、何か理由がないと話しかけづらい。
松永は自分と同じように濡れそぼった姿をみて、鞄の中にタオルがあったのを思い出した。チャックを開けて中を確かめてみる。あるにはあったが、鞄の底でしわくちゃになっていて、他人に貸すのは躊躇われる。新品の綺麗なやつがあれば……とガッカリする。
だからといって、このまま濡れたままでいるのも寒いだろう。実際、松永も寒くて早く帰りたかった。
松永の家は走ればさほど遠くない距離にあるが、石井の家はどうだろう。もしかしたら、歩いてもかなりかかる距離にあるのかもしれない。
それなら、自分が一度家に帰ってからタオルと傘を持ってくれば石井は助かるんじゃないだろうか。このまま放っておいて、風邪をひかれでもしたら困る。
そう思ったら動き出さずにはいられなくて、松永はすぐさま走って家に帰った。
玄関で母親にびっくりされたが、タオルを二つ貰い、自分は一度体を拭いてから雨合羽を着た。そして、石井のぶんの傘を持って、もう一度家を出た。
走って戻ってくると、石井は変わらず軒下にいた。空をぼーっと見上げている。ばしゃばしゃと走る音に気がついて、石井の視線が松永のほうに向いた。はあっはあっと肩で息をしながら、松永は石井に傘を差し出した。
「これ、使って。あとタオルも」
「……」
石井は何も言わず、何も受け取らない。
「俺の家、すぐそこだったから持ってきたんだ。傘は前にコンビニで買ったやつだから返さなくていいし、タオルも捨ててくれていいから」
何を言っても無反応な男に、松永は焦れた。
傘もタオルも自分が勝手にやったことだが、ここまで無視しなくてもいいだろ、と心の中で悪態をつく。一方的な行為がだんだんと恥ずかしく思えてきて、伸ばしていた手を下ろした。何をやってるんだろう、と後悔する。別に何かを期待していたわけじゃない。ただ放っておけなかっただけだ。それが迷惑だというのなら、仕方ない。
小さくため息をついて大人しく帰ろうとした瞬間、石井の手が松永のタオルを掴んだ。
「あっ……」
急なことに驚いて、思わず反応が大きくなった。タオルをお互い掴んだまま変な時間が流れる。
すっと松永が力を抜くと、タオルを受け取った石井が遠慮がちに松永の頬にあてた。
「いや、それは石井のために……」
言っても聞かない。壊れ物を扱うようにそっと添えられたタオルが擽ったい。
松永の濡れた顔をしっかりと拭いてから、石井は自分の体も拭った。
「あとこれも……」
タオルを受け取ったのなら、傘も受け取って貰えるだろうか。松永はおずおずと差し出した。
「松永」
「は、はい」
石井の声を初めて聞いた。低くて少し、ハスキーだった。
何より、自分の名前を覚えていたことに松永は驚いた。
「ありがとう、わざわざ」
「いや……」
差し出していた傘を受け取って、石井はそれを広げた。
「同じ方向だから、入っていけよ」
そう言って石井は松永のほうに傘を傾けた。松永は雨合羽を着ていたし、それに男と二人で傘に入るのはきっと窮屈だろう。
「お、俺はいいからっ。じゃあ、また明日!」
早口で捲し立て、松永は逃げるようにその場を去った。
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