ペトリコール
東雲ひかる
第一部
第1話 「赤い髪の男」
下校時刻を迎えた廊下は、生徒たちの足音と雑談で騒がしい。
その中を四人グループの男子生徒がダラダラと歩いた。人が少なくなったのをいいことに、広い廊下で幅を利かせている。
「うわ、天気悪くね?」
「今朝からテレビで雨降るって言ってたよ?」
「もしかして傘忘れちゃったのか?」
左隣を歩いていた
「男と相合傘とか最悪すぎんだろ!」
「絶対入れないから!」
悲鳴のような声が廊下に響く。
三人の様子を半歩下がって見ていた
四人の騒ぐ声は、昇降口から廊下中に響いていた。
「松永、ちょっといいか」
四人の和気あいあいとした空気が一瞬で消えた。
クラス担任の
「まっつん、何かやらかした?」
関口が聞くと松永は黙って首を横に振った。
上野や田村がよく馬鹿をやらかすのに対して、松永はそういうタイプではなかった。
「ちょっと行ってくる」
呼ばれた理由がわからないまま、松永は関口の肩にポンポンと手を置いて高崎のもとへ向かう。
背中から「先帰ってんぞー」と上野の声が聞こえて、松永は振り返らずにヒラヒラと手を振った。
「邪魔して悪いな」
「いえ……」
申し訳なさそうに謝られて、なんとも決まりが悪い。
「あー、その……松永って
唐突すぎて、松永は一瞬、誰のことかわからなかった。
石井
ちょうど学年が切り替わる時期にやってきたが、その存在はかなり異質だった。理由は一重に、あの燃えるような赤色の髪。東京から来た転校生というだけでも十分に目立っていたが、あの派手な髪色が拍車をかけていたに違いない。
校則的に許されるはずはないが、教師の注意もどこか腫れ物に触るようだった。
学年が切り替わって二ヶ月。梅雨の時期に入った今、石井の立ち位置は最初に比べて真逆の位置にある。まるで空気のように扱われているのに、あの赤い髪だけがクラスの輪の中で浮いていた。
だが、そんな現状も、本人が望んでやったことのような気がする。
松永は石井にわざわざ声をかけたりはしなかったが、親切な生徒はいくらでもいた。それを全部はね除けて、一人でいることを選んだのだ。
それが本人の選択じゃないなら、もっと感謝を伝えてクラスに馴染む努力をするべきだし、しないのは本人の問題でしかない。
……少なくとも、端から見ていた松永が石井からそんな努力を感じたことはなかった。
「石井って、あの転校生ですよね」
「そうそう」
「喋ったことはないです……というか、喋ったことある奴いるんですか?」
「それは……まあ」
高崎は苦笑いを浮かべて後頭部をガシガシと掻いた。
「いや、その、あいつは人見知りなんだ。反応が乏しいだけというか……」
本当にそれだけなんだろうか。松永は疑いの目で高崎を見た。
「そんな顔するなよ」
「別に」
困ったように肩を竦め、高崎は小さく息をついた。
「松永は、石井のことどう思う?」
「どうって……」
「嫌いか?」
「……嫌いになるほど、石井のこと知らないです」
「知りたいとは思わないのか」
「本人が嫌がるでしょ」
「それはどうかな」
ふふっと笑って高崎は楽しそうだった。何がそんなにおかしいんだろうと、松永は不思議に思った。
「石井に声をかけてやってくれないか?」
「は?」
思わず大きな声が出た。
「何で俺なんですか……」
「松永は見た目のわりに真面目だし、石井とそんなに相性悪くないと思うんだよなぁ」
高崎には自分がどう映っているんだろう。そう思いながらも松永は聞かなかった。
「無理にとは言わないけどさ、気に留めておいてよ」
「はあ……」
気の抜けた返事をしながら、松永の脳裏には石井の髪色以外、ぼんやりとしか浮かんでこなかった。
高崎から解放されてようやく昇降口に着いた頃、外はポツポツと雨が降り始めていた。
降りだす前に帰りたかった、と心の中でボヤきながら鞄に入れていた折り畳み傘を取り出す。
広げようとしたところで、隣に人影が見えた。何気なく振り向くと、立っていたのは石井だった。ぼんやりとした顔で外の景色を眺めていた。
ついさっき高崎から石井のことを頼まれたばかりで、松永は話しかけるか悩んだ。二人きりの状況で声をかけないのも素っ気ないとは思うが、隣の男がそれに答えてくれる保証もない。
クラスの奴らがスルーされているところを何度も見ていたせいで、こちらから声をかけなければいけないとすら思わなくなっていた。……それが、どうして自分だけがこんなに考えなければいけないのか。理由はどう考えても高崎のせいで、少し恨んだ。
傘を広げられないまま、その場にフリーズする松永の左肩を誰かの手が軽く触れた。びくりとした反応に「ご、ごめん」と声がする。
石井と反対の左隣には、クラス委員の
「急にごめんね、驚かせるつもりはなくて……」
「俺のほうこそ」
お互いに何度かごめんと謝り合い、古賀が「今から帰り?」と松永の傘をチラリと見た。
「そうだけど」
「珍しいね、こんな時間まで残ってるの」
「まあ……」
古賀に言われて高崎との会話を思い出した。隣の男にも声をかけるべきか、松永は真剣に悩んだ。
「あの、実は私、傘忘れちゃって」
古賀は言いにくそうに、言葉を選んでいるようだった。
「もしよければなんだけど……途中まで一緒に入れて貰えないかな?」
「古賀のほうこそ、珍しいじゃん」
「え」
「忘れ物なんてするタイプじゃなさそうだから」
「あ、えっと……朝ちょっとバタバタしてて」
ふーん、と返事をしながら松永は手に持っていた傘をようやく広げた。
「駅まででいい?」
「で、でも松永くんの家って……」
松永の家は高校から歩いて十五分ほどの距離にあった。駅まで行けば、家を通りすぎてしまう。
「濡れて帰らせるわけにもいかないし、駅前ならコンビニとかで傘売ってるだろ?」
「……うん、ありがとう」
松永がさした傘の中に、古賀は小走りで入った。昇降口が遠ざかり、雨粒の音が強くなる。
松永はせっかく女の子と二人で傘をさしているのに、昇降口で立ったままの石井が気になって振り向いた。
石井は相変わらず、ぼんやりと突っ立っているだけだった。その姿がやけに寂しそうで、松永はすぐに見ないふりをした。
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