第5話:呼吸困難
6時間も走り続けているのに、女のまぶたが閉じることはなかった。
空はまだ闇に支配されている。
だが、東の空だけが、ほんのわずかに青みを帯び始めていた。
女は窓の外を、焦点の合わない目で追っている。
時折、膝の上に置いたスマートフォンへ視線を落とした。
指は動かない。
画面を操作する気配もない。
それでも、通知音が鳴るたび、女は引き戻されるように画面を見つめていた。
「次の出口で降りてください」
女は口を開いた。
「承知しました」
ジョージはそれだけ答えた。
遠くの方に視線が行く。
彼の脳裏に、ある過去の出来事がふと浮かんだ。
◇
夜更け前のΩRMオフィス。
照明を半分に落とし、チャットは椅子に沈んでいた。
「なあ、ジョージ」
缶コーヒーを振りながら言う。
「
ジョージは書類から目を上げず、「ん?」とだけ返した。
「無事なら成功? 生きてたら?
それとも、契約と法律を守ったら?」
チャットは小さなため息をついた。
「……無事で、生きてて。
それで壊れてたら、どうなんだろうな。
護衛って、正解が分からなくなる時がある」
チャットは笑わなかった。
「俺さ、前の仕事でさ」
言いかけて、やめた。
「……いや、いいや」
チャットは缶を机に置いた。
「俺、副社長なのに情けねぇなぁ……」
自嘲気味に笑ったが、声は乾いていた。
ジョージは、答えなかった。
現在。
フロントガラスの向こうで、朝の気配が広がっている。
――あの時も、答えは出なかった。今も、同じだ。
◇
高速道路を降りてしばらくすると、周囲の風景が変わり始めた。
証明はまばらになり、建物は低く、道路はやけに広い。
信号の感覚が長くなり、車の数が減っていく。
女はふと、ずっと閉めていたコートの前ボタンを外し始めた。
アプリで指示されたのだろう。
車内の温度は適切なのに、その手はぎこちなく、小刻みに震えていた。
コートの下に隠れていた衣服はとても派手で、さらに薄く、小さかった。
11月の外気には耐えられないような薄着だった。
女は顔を伏せた。
――明らかに、彼女自身の意思ではない。
ジョージは、ハンドルを握る手にわずかに力を込めた。
次にルームミラー越しに見た女は、胸に手を当て、わずかに前屈みになっていた。
呼吸は速く浅い。肩が小刻みに震えている。
ジョージはウインカーを出し、路肩に寄せた。
急ブレーキは踏まずにハザードを点け、車を止めた。
「大丈夫です。今、止めました」
声は低く、一定だった。
「吐く方を先にしてください」
女は答えず、息を吸うばかりで吐けていない。
涙を流し、「息が、できない……」と掠れた声を漏らす。
――過呼吸。
ジョージは後部座席へ回った。
「少し、失礼します」
足元に腰を落とし、距離を保ったまま視線を合わせる。
「触ります。嫌なら、首を振ってください」
反応はない。
一拍置いて、指先だけで脈を取る。
速いが、乱れてはいない。
「大丈夫。ここは安全です。
私はここにいます。
私の手、握れますか」
弱く、握り返してきた。
「吐ける分だけ、吐いて」
ジョージは大きく、ゆっくり息を吐く。
それに合わせるように、女の呼吸が徐々に整っていく。
女は泣き出した。
「ごめんなさいごめんなさい」と、誰に向けたものか分からない謝罪を繰り返す。
「あなたのせいじゃない」
ティッシュを渡し、ただ待った。
呼吸が落ち着いたのを確認して、言った。
「病院に向かいます。
ここで耐える理由はありません」
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