第2話:靄(もや)の女

 ――6時間後、22時45分。


 夜気の低いところに、霧とも呼べない薄いもやが漂っていた。


 倉庫を改装したΩRMのオフィスから、古いSUVが滑り出した。

 運転手はジョージ。


 指定された合流地点は、ΩRMがあるミラーストリートからおよそ10分ほど。

 灯りの少ないロームストリートの入口だった。


 シャッターが閉まった倉庫の前に、背の高い女が立っていた。

 場違いなほど、よく仕立てられた真紅のロングコート。

 首元から胸元まで掛かる新雪色のフェイクファー。

 その下の服は、寒さよりも体の線を優先している。


 体のラインはなだらかな曲線を描いており、それは靄の中でもはっきり写っていた。


 ヒールの高い靴。

 歩くためではない。

 見せるための靴だった。

 手には、小さなバッグがひとつだけ。


 ジョージは、車線を跨いでその女の前に車を寄せた。


 女は目を見開き、びくりと肩をすくめて、半歩後ずさる。

 重心が揺れ、バランスを崩しかけた。

 ヒールを履き慣れていない動きだった。


 ジョージは、運転席の窓を少しだけ下げた。


「ΩRM。あなたの護衛担当です」


 女が小さく頷くのを確認し、ジョージは車のロックを解除した。

 女は運転席の後ろに乗り込んだ。


「反対側の後部座席に」


 短く制して、続けた。


「その方が安全です」


 女はドアノブに手をかけた。

 しかし開かないと悟ると、息を呑み、一拍遅れて肩を落とした。

 すとんと表情が消えた。


 そしてそのまま、ずるずると座席の間を移動した。


「シートベルトを」


 女は素直に従う。

 ベルトを引く手が、わずかに震えていた。


 ジョージはエアコンの送風を一段、上げた。


「I-95を……」


 女は震える声で言いかけて、一拍、言葉を切る。

 呼吸を整えているようだった。


「州間高速道路I-95を南へ走ってください。

 詳しい指示は、追って言います」


 他にはスマホが握られていた。

 メッセージアプリの画面が、窓に反射してわずかに浮かび上がっている。


「承知しました」


 SUVはインターチェンジに向かって走り出した。


 均等に続く街灯の灯りが、ふたりの顔を順に照らしていく。

 ジョージは信号で止まったとき、ルームミラー越しに女の顔を見た。


 小さめで、すっと通った鼻。

 化粧の上からでも分かる、きめの細かい色白の肌。

 薄紅を引かれた唇は、小さく引き締まっている。


 まつ毛は長く、瞳は、地平線に太陽が沈んだあとの空の色をしていた。

 青と赤が溶け合い、夜に移る直前の、透き通るヴァイオレット。


 背中まで伸びる艶やかな黄金色の髪は、染められたものではなく、彼女自身の色だった。


 ――フランス人形みたいだ。

 そう形容する者もいるだろう。


 だが、その目の奥には、辛うじてまだ感情があった。

 それは、深い哀しみのように見えた。


 彼女は外を見ていたが、ふとミラー越しにジョージの目を見た。


「あなた、私のこと……」


 言いかけて止まる。

 目線を伏せた。


 ジョージは言った。


「私は、あなたに質問することを禁じられています」


 女の肩が微かに落ちた。

 安心したのか、絶望したのか、判別しづらい落ち方だった。


「……何も聞かないんですね」


「仕事ですから」


「大変なお仕事ですね」


「仕事です」


 女が、小さく頷いた。

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