【ホラー】罪を抱えた者に、怪異は訪れる——百鬼夜行
マスターボヌール
第1話 黒染み——雪の上の罪
午前6時43分。
真由は更衣室のロッカーを閉める音を聞きながら、自分の指先が微かに震えているのに気づいた。16時間。今夜もまた、16時間だった。
「お疲れさま、高瀬さん」
振り返ると、日勤の同僚が白衣に袖を通しているところだった。名前が出てこない。3年同じ病棟にいるのに、この人の名前が、出てこない。
「お疲れさまです」
真由は笑った。笑えていたと思う。
---
外に出ると、世界は薄青い雪明かりに覆われていた。
2月の夜明け。除雪車がまだ通っていない歩道を、真由は慎重に歩いた。足元の雪は昨夜から降り積もったもので、10センチほどの厚みがある。その下に、凍結した古い雪の層。さらにその下に、アスファルト。
この街では、冬は地面が三層構造になる。
真由は駅前のコンビニに入った。暖房の熱気が顔に当たり、一瞬だけ眩暈がした。睡眠不足だ。いつものことだ。
冷蔵ケースの前に立つ。缶チューハイが整然と並んでいる。レモン。グレープフルーツ。白ぶどう。真由は無意識にストロング系の9パーセントに手を伸ばし、それから、やめた。
あれを飲むと、夢を見る。病室の夢。モニターのアラーム音。投与ラインに手を伸ばして——
真由は首を振り、7パーセントのレモンを2本取った。
レジの若い男は真由の顔を見なかった。バーコードを読み取り、金額を告げ、釣り銭を渡す。その間、彼の視線は真由の手元だけを追っていた。真由もまた、彼の顔を見なかった。
ありがとうございました、という声が背中に届く頃には、もう自動ドアが閉まっていた。
---
夜勤明けに酒を買う。
真由はいつからこれを習慣にしたのか、もう覚えていない。最初は眠れない夜があって、それを解決するための手段だった。今は違う。今は、病棟から自分のアパートまでの距離を埋めるための、ルーティーンのようなものになっていた。
あの建物から出て、この酒を買って、飲んで、眠る。
そうすることで、「看護師の高瀬真由」から「ただの高瀬真由」に戻れる気がした。気がしただけで、実際にはどちらも同じ人間だった。同じ手を持ち、同じ判断をし、同じ——
真由は首を振った。
考えるな。
家に帰って、シャワーを浴びて、これを飲んで、眠る。それだけでいい。
---
アパートまでの道を、真由は選んだ。いつもの道ではない。いつもの道は除雪が行き届いていて歩きやすいが、人通りが多い。今朝は誰にも会いたくなかった。誰の顔も見たくなかった。
だから、川沿いの遊歩道を行くことにした。
この時間、この道を歩く人間はいない。夏場はジョギングをする人や犬の散歩をする人で賑わうが、冬は除雪が入らない。自治体の管轄外だ。
雪を踏む音だけが、真由の耳に届いていた。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。
呼吸の音。自分の。白い吐息。
ぎゅ、ぎゅ——
足が、沈んだ。
---
違う感触だった。
雪ではない。雪の下の氷でもない。アスファルトでもない。
真由は立ち止まり、足元を見下ろした。
黒かった。
雪の上に、黒い染みが広がっていた。直径は2メートルほど。完全な円形ではなく、縁がわずかに歪んでいる。雪が溶けたのか、と最初は思った。だが違う。雪は溶けていない。黒い染みの上にも雪は積もっている。なのに、その雪の下が、黒い。
真由の右足は、その染みの中央近くに立っていた。
鉄の匂いがした。
血液の匂いを、真由は知っている。仕事柄、嫌というほど知っている。これは血の匂いに似ていた。だが血ではない。もっと古い。もっと深い。地面の下から這い上がってくるような、原始的な鉄の匂い。
そして、水の音。
真由は耳を澄ませた。川の音ではない。川はここから50メートルは離れている。この音はもっと近い。足元から聞こえる。黒い染みの下から、何かが流れている。
いや、違う。
流れているのではない。
脈打っている。
---
真由は足を引こうとした。引けなかった。
靴が染みに吸い付いているわけではない。足が重いわけでもない。ただ、動けなかった。動こうとする意志が、どこかで途切れていた。
心臓が早くなっていた。
缶チューハイの入ったビニール袋が、右手の中で揺れている。かさかさと、安っぽい音を立てて。
真由は自分の呼吸を聞いた。浅い。速い。過呼吸の前兆だと、看護師の部分が診断する。だが体は動かない。
黒い染みが、少しだけ、広がった気がした。
真由の足首に向かって。
「——っ」
声が出なかった。
鉄の匂いが濃くなる。水音が大きくなる。脈打つリズムが、真由自身の心拍と重なり始める。
そして——
視界が切り替わった。
蛍光灯。病室。モニターのアラーム音。投与ラインに手を伸ばす、自分の指。
——そこで、視界が途切れた。
---
蛍光灯。
白い光が、真由の視界を満たしていた。
目を開けているのか、閉じているのか、分からなかった。ただ、光があった。病院特有の、あの無機質な白さ。影を作らない、のっぺりとした光。
そして、音。
ピピピ……ピピピ……
心電図モニターのアラーム音。規則的だが、間隔が短い。頻脈。患者の心拍数が上がっている。
真由は自分がどこにいるのか、理解した。
病室だ。
あの夜の、病室だ。
---
304号室。
真由はベッドサイドに立っていた。立たされていた。自分の意志でそこにいるのではない。体が勝手にそこにある。まるで、誰かに位置を指定されたマネキンのように。
だが、感覚はあった。
足元のリノリウムの冷たさ。消毒液の匂い。乾燥した空気が喉に張り付く感触。すべてが、あの夜のままだった。
患者の顔が見える。
67歳。男性。心不全の急性増悪で3日前に入院。名前は——名前は、覚えていない。いや、覚えている。覚えているのに、思い出したくない。
佐々木、だ。佐々木義明。
真由は彼の顔を見た。
目を閉じている。眉間にシワが寄っている。苦しんでいるのか、夢を見ているのか。呼吸が浅い。胸の上下が、かろうじて見える程度。
モニターの数字が、視界の端で点滅している。
血圧 92/58
心拍数 118
SpO2 89%
---
酸素飽和度が、90を切っている。
看護師の部分が、自動的に判断を下した。危険域だ。このままでは——
真由の右手が動いた。
自分の意志ではない。いや、あの夜の自分の意志だ。過去の真由が、今の真由の体を動かしている。今の真由は、それを内側から見ている。自分自身の行動を、自分自身の目で、追体験させられている。
手が、点滴スタンドに伸びる。
投与ラインが見える。透明なプラスチックの管。その中を、薄い液体がゆっくりと流れている。強心剤。心臓の収縮力を高める薬。だが、投与量が足りていない。医師の指示は「現状維持」。だが、現状では——
指先が、プラ管に触れた。
チリ。
冷たい。プラスチック特有の、体温を吸い取るような冷たさ。
---
ここから、時間が変わった。
真由は、それを感じた。空気の密度が変わった。音が遠くなった。モニターのアラーム音が、水の中で聞いているように歪んだ。
1秒が、引き延ばされていく。
---
——1秒目
指先が、投与ラインのクレンメに触れている。
クレンメ。流量を調整するための小さな部品。これを開けば、強心剤の投与量が増える。患者の血圧は上がる。酸素飽和度も改善する。たぶん。おそらく。
佐々木さんの顔が、視界の中央にある。
眉間のシワが、さっきより深くなっている。唇の色が悪い。紫がかっている。チアノーゼ。酸素が足りていない。脳に、心臓に、酸素が届いていない。
真由の心臓が、強く打った。
ドクン。
患者のモニター音と、自分の心音が重なる。ピピピ……ドクン……ピピピ……ドクン……
開けるべきだ。
今すぐ、クレンメを開けるべきだ。
指先に力が入る。プラスチックの感触が、皮膚に食い込む。
---
——2秒目
だが、手が動かない。
真由の中で、別の声が聞こえた。
(当直医は?)
まだ戻ってきていない。別の患者の急変対応で、隣の病棟に行っている。コールは入れた。「すぐ戻る」と言っていた。だが、もう10分経っている。あと何分かかるか、分からない。
(ガイドラインでは——)
強心剤の投与量変更は、医師の指示が必要。看護師の判断で変更してはならない。たとえ緊急時でも。たとえ患者の状態が悪化していても。記録に残る。報告書に残る。もし何かあれば——
(もし、失敗したら。)
その声が、真由の頭の中で響いた。
もし、投与量を増やして、患者の状態が悪化したら。もし、心停止が起きたら。もし、死亡したら。
原因は何だ?
看護師が、独断で、医師の指示なく、投与量を変更した。
それが、原因になる。
記録に残る。
報告書に残る。
真由のせいに、なる。
真由の手が、震えた。
クレンメを握った指が、微かに痙攣している。患者のモニター音が、耳の奥で反響している。ピピ……ピピ……間隔が、わずかに長くなっている。血圧が、下がっている。
モニターの数字が変わった。
血圧 88/52
真由は、それを見た。見ていた。見ることしか、できなかった。
---
——3秒目
真由は、手を離した。
指先から、クレンメの感触が消えた。
プラスチックの冷たさが、急に遠くなった。真由の手は、自分の体の横に垂れ下がっていた。何もしていない手。何も選ばなかった手。
佐々木さんの呼吸が、さらに浅くなった。
胸の上下が、ほとんど見えない。目は閉じたまま。眉間のシワも、消えていた。苦しむ力さえ、残っていないのか。
モニター音が変わった。
ピピ……ピ……ピ……
間隔が、さらに長くなる。
血圧 85/48
SpO2 86%
真由は、それを見ていた。
ただ、見ていた。
自分の心臓が、規則正しく打っているのを感じていた。ドクン。ドクン。ドクン。患者の心臓よりも、ずっと安定したリズムで。
(私は、間違っていない。)
その声が、真由の中で響いた。
(ガイドラインに従った。医師の指示を待った。それが正しい手順だ。私は、間違っていない。)
だが、その声は、空洞に響く音のようだった。
言葉だけがあって、中身がない。正しさだけがあって、温度がない。
そして——
足音が聞こえた。
廊下から。早足で近づいてくる足音。当直医が戻ってきた。
ドアが開いた。白衣の男が入ってきた。モニターを見た。患者を見た。顔色が変わった。
「投与量、上げるぞ」
医師がクレンメに手を伸ばした。
(ほらみろ。)
真由の中で、声が囁いた。
(医師が来た。医師が判断した。これで、私のせいではなくなる。)
だが、もう3秒が過ぎていた。
3秒。
たった3秒。
だが、その3秒の間に、佐々木さんの脳には、どれだけの酸素が届かなかったのか。その3秒の間に、彼の心臓は、どれだけ苦しんだのか。
真由は、それを知らないふりをした。
知らないふりを、し続けた。
---
視界が、切り替わった。
白い光が消えた。蛍光灯が消えた。モニター音が消えた。消毒液の匂いが消えた。
代わりに——
冷気が、頬を打った。
真由は、雪の上に立っていた。
足元に、黒い染みがある。さっきと同じ場所。さっきと同じ姿勢。右手には、缶チューハイの入ったビニール袋。かさかさと、風に揺れている。
何秒経ったのか、分からなかった。
一瞬だったのか。1時間だったのか。空は相変わらず薄青い。夜明けの色。何も変わっていない。何も——
真由の膝が、震えた。
がくん、と力が抜けた。立っていられない。立っていたくない。だが、膝をつくことも、座り込むこともできない。体が自由にならない。黒い染みが、彼女をそこに固定している。
呼吸が浅くなっていた。
喉の奥が詰まっている。過呼吸。このまま行くと——
(落ち着けわたし。)
看護師の部分が、命令した。
(深呼吸しろ。4秒吸って、4秒止めて、4秒吐け。しっかりしろわたし、パニックを起こすな。)
だが、体は言うことを聞かなかった。
なぜ、あれを見せられた?
なぜ、今、あの夜のことを?
ビニール袋が、手から滑り落ちた。
雪の上に落ちる音。缶が中で転がる音。真由はそれを拾おうとしなかった。拾う余裕がなかった。
足元の黒い染みが、また脈打った。
ドクン。
いや、違う。
それは、真由自身の心臓の音だった。
染みの鼓動と、真由の鼓動が、完全に同期していた。どちらがどちらか、もう分からない。染みが真由の心臓を操っているのか。真由の心臓が染みを脈打たせているのか。
境界が、曖昧になっていく。
「……なん、で……」
声が出た。掠れた、小さな声。
「なんで、あれを……」
黒い染みは、答えなかった。
ただ、そこにあった。
真由の足元で、静かに、脈打ち続けていた。
---
真由は、口を開いた。
言い訳が、喉まで来ていた。何度も繰り返した言葉。何度も自分に言い聞かせた言葉。それを吐き出せば、楽になれる。そう思った。
「私は——」
声が出た。掠れていたが、音になった。
「私は、ガイドラインに——」
喉が、詰まった。
言葉が、そこで止まった。「従った」と言おうとした。それだけだ。たった3文字。なのに、その3文字が、喉の奥で凍りついていた。
もう一度、試みた。
「ガイドラインに、従——」
出ない。
舌が動かない。喉が閉じている。声帯が、その言葉を拒否している。
真由は、自分の首に手を当てた。何かが詰まっているわけではない。物理的には、何も問題ない。なのに、言葉が出ない。
【——嘘は、許さない。】
声ではなかった。音ではなかった。だが、真由はそれを「聞いた」。足元から。黒い染みから。水音と鼓動の隙間から。
染みが、真由の「嘘」を封じている。
---
視界が、また切り替わった。
蛍光灯。病室。モニター音。
真由の指が、クレンメに伸びている。
(——また、これか。)
真由は、それを内側から見ている。あの夜の自分を。あの夜の選択を。
指先がプラスチックに触れる。チリ。
患者の顔。佐々木さん。眉間の皺。紫がかった唇。
モニターの数字。血圧92/58。心拍数118。
真由の指が、震える。
(もし、失敗したら——)
手を、離す。
視界が戻る。
雪の上。黒染み。冷気。
だが、1秒もしないうちに——
また、視界が切り替わる。
---
蛍光灯。病室。モニター音。
指先がクレンメに触れる。
患者の顔。
手を、離す。
視界が戻る。
---
また。
---
蛍光灯。
クレンメ。
手を離す。
---
また。
---
また。
---
何度目か、分からなくなった。
5回か。10回か。30回か。
真由は、あの3秒を繰り返し見せられていた。同じ角度から。同じ感覚で。同じ結末を。
指が伸びる。触れる。震える。離す。
指が伸びる。触れる。震える。離す。
指が伸びる。触れる。震える。離す。
「——やめて」
声が出た。掠れた、小さな声。
だが、止まらない。
視界が切り替わる。蛍光灯。クレンメ。手を離す。
「やめて」
視界が切り替わる。蛍光灯。クレンメ。手を離す。
「やめてよ」
視界が切り替わる。蛍光灯。クレンメ。手を——
「やめろッ!」
真由は叫んだ。
声が、雪原に響いた。反響するものは何もない。ただ、冷たい空気に吸い込まれて、消えた。
視界が、現在に戻っていた。
雪の上。黒染み。足元の脈動。
真由は荒い息をついていた。喉が痛い。叫んだせいだ。体が震えている。寒さではない。あの3秒を、何十回も追体験させられた疲労。
だが——
染みは、まだ脈打っている。
ドクン。ドクン。ドクン。
終わっていない。
まだ、終わっていない。
---
真由は、気づいた。
これは、染みが見せているのではない。
真由自身が、この3秒を抱えているのだ。
あの夜から、ずっと。3ヶ月間、ずっと。真由の中で、あの3秒は繰り返され続けていた。夢の中で。酒に溺れた夜に。ふとした瞬間に。
染みは、それを「外」に引きずり出しただけだ。
真由が見ないふりをしていたものを。真由が認めようとしなかったものを。
(——この3秒を認めない限り、私は逃げられないってこと?)
その理解が、真由の中に落ちてきた。
逃げ場は、最初からなかった。あの夜から、ずっと。真由は逃げていたつもりで、同じ場所をぐるぐる回っていただけだった。
黒染みは、その円の終点だった。
---
真由は、口を開いた。
今度は、言い訳ではなかった。
「私は——」
声が震えている。だが、出る。
「私は、投与ラインに手を伸ばした」
言葉が、一つずつ、口から零れ落ちていく。
「クレンメに、触れた」
喉が詰まりそうになる。だが、止まらない。
「開ければ、佐々木さんの血圧は上がったかもしれない。酸素飽和度も、改善したかもしれない」
涙が、頬を伝った。いつから泣いていたのか、分からない。
「でも——」
真由は、目を閉じた。
佐々木さんの顔が、まぶたの裏に浮かんだ。眉間のシワ。紫がかった唇。苦しそうな呼吸。
「でも、私は、手を離した」
言葉が、凍った空気の中に響いた。
「3秒間、何もしなかった」
真由の声は、もう震えていなかった。
「その3秒の間に、佐々木さんの血圧は、さらに下がった」
淡々と。事実を。
「私は、それを見ていた」
ただ、事実を。
「見ていたのに——何もしなかった」
真由は、目を開けた。
黒い染みを、見下ろした。
「なぜなら——」
ここだ。
ここが、核心だ。
3ヶ月間、真由が認めようとしなかったこと。言葉にしようとしなかったこと。酒で流そうとしたこと。夢から逃げようとしたこと。
「私は——」
真由の口が、動いた。
「佐々木さんが怖かったんじゃない」
言葉が、出た。
「失敗が、怖かった。自分が責められることが、怖かった。私は、患者じゃなくて、自分を守った」
---
沈黙が、降りてきた。
雪の上に。黒染みの上に。真由の上に。
風が止まっていた。川の音さえ、聞こえなかった。世界が、真由の告白を受け止めるために、息を止めていた。
そして——
足裏から、温もりが伝わってきた。
黒い染みから。
それは、人の体温ではなかった。もっと深い。もっと広い。大地の奥から湧き上がってくるような、原始的な熱。
真由の足首を包み、ふくらはぎを上り、膝に達した。
怖くなかった。
不思議と、怖くなかった。
染みの鼓動が、真由の心臓と重なっていた。ドクン。ドクン。ドクン。もう、どちらが自分の音か、分からない。染みが真由を取り込んでいるのか。真由が染みに溶けているのか。
水音が、耳の奥で響いていた。遠くの川の音ではない。もっと近い。真由の内側から聞こえる。血液が流れる音。命が脈打つ音。
真由の視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
だが、恐怖はない。
代わりに、温もりだけがある。
---
温もりが、膝を超えた。
太腿を包み、腰に達し、腹部を満たしていく。真由の体温と、染みの温もりが、境界を失っていく。どこまでが自分で、どこからが染みなのか。もう、分からない。
胸に達した時、心臓が大きく跳ねた。
ドクン。
それが最後の抵抗だったのか、それとも歓迎だったのか。真由には判別できなかった。ただ、その一拍の後、心臓の鼓動は染みの脈動と完全に重なった。
ドクン。ドクン。ドクン。
自分の音なのか、染みの音なのか。もう、どちらでもよかった。
---
足が、沈み始めた。
靴底が、黒い染みの表面を突き破る。水に足を入れる感覚に似ていた。だが、水ではない。もっと濃密で、もっと温かい。血液のような——いや、違う。これは、大地そのものだ。
足首まで沈んだ。
ふくらはぎまで沈んだ。
真由は、抵抗しなかった。
抵抗する理由がなかった。恐怖はとうに消えていた。代わりにあるのは、奇妙な解放感だった。3ヶ月間、真由の中で凝り固まっていた何かが、ゆっくりと溶けていく。
膝まで沈んだ。
太腿まで沈んだ。
雪原の冷気が、遠くなっていく。世界が、遠くなっていく。
---
視界に、顔が浮かんだ。
佐々木さんだった。
だが、あの夜の顔ではなかった。眉間のシワはない。紫がかった唇もない。苦しみの痕跡は、どこにもない。
穏やかな顔だった。
目を閉じている。だが、死んでいるのではない。眠っているのでもない。ただ、静かに、そこにいる。
彼は、真由を見ていた。
閉じた目で、真由を見ていた。
責めてはいなかった。
怒ってもいなかった。
悲しんでもいなかった。
ただ——見ていた。
真由は、気づいた。
(佐々木さんは、最初から私を責めていなかった。)
あの夜も。あの夜の後も。3ヶ月の間、真由を責め続けていたのは——
(私を責めていたのは、私自身だった。)
---
腰まで沈んだ。
温もりが、腹部を満たしている。内臓が、染みに包まれている。奇妙な安心感があった。母親の胎内とは、こういう感覚なのかもしれない。真由は、それを覚えていないはずだった。なのに、懐かしいと感じた。
佐々木さんの顔が、まだ視界にあった。
彼の口元が、わずかに動いた。何かを言っているのか。声は聞こえない。だが、真由には分かった。
【——もう、いいよ】
そう言っている気がした。
真由の目から、涙が零れた。
温かい涙だった。悲しみの涙ではない。後悔の涙でもない。何と呼べばいいのか、分からない。ただ、流れるに任せた。
胸まで沈んだ。
心臓が、染みの中にある。
ドクン。ドクン。ドクン。
染みの鼓動と、完全に一つになっている。
---
真由は、思った。
(ああ、これでいい。)
それは諦めではなかった。
絶望でもなかった。
受容だった。
私は、罪を犯した。患者ではなく、自分を守った。その3秒間、私は看護師ではなく、ただの臆病な人間だった。
それを、認めた。
言葉にした。
そして今——その代償を、受け入れる。
(これでいい。)
首まで沈んだ。
顎が、染みに触れた。温もりが、頬を包んだ。
視界が、暗くなっていく。
佐々木さんの顔が、薄れていく。だが、消える直前、彼が微笑んだ気がした。気のせいかもしれない。だが、真由はそう信じることにした。
(さようなら。)
誰に向けて言ったのか、分からない。佐々木さんに。自分自身に。それとも、世界に。
頭が、沈んだ。
視界が、完全に暗くなった。
音が消えた。鼓動の音さえ、聞こえなくなった。
温もりだけが、あった。
そして——
何もなくなった。
---
翌朝。
7時15分。
病棟の更衣室で、加藤という看護師が白衣に袖を通していた。
「ねえ」
彼女は、隣のロッカーを開けていた同僚に声をかけた。
「今日、高瀬さん休みだっけ?」
同僚が、首を傾げた。
「高瀬さん?」
「ほら、夜勤の——」
加藤は言葉を止めた。夜勤の、何だ? 高瀬、という名前が口から出た。だが、顔が思い出せない。声も。背格好も。
「高瀬、って人、うちの病棟にいた?」
同僚が、不思議そうな顔をした。
「聞いたことないけど」
「……そう、だっけ」
加藤は、ロッカーを閉めた。何か引っかかる。だが、何が引っかかっているのか分からない。
「気のせいか」
彼女は更衣室を出た。
---
ナースステーションで、師長が勤務表を確認していた。
「おかしいわね」
彼女は眉をひそめた。
「昨夜の夜勤、一人足りないんだけど」
「え?」
若い看護師が、勤務表を覗き込んだ。
「本当だ。3人体制のはずなのに、2人しか記録がない」
「システムのエラーかしら」
師長は、パソコンの画面をスクロールした。過去の勤務記録。スタッフ名簿。どこにも、欠けている名前は見当たらない。最初から、3人目など存在しなかったかのように。
「まあ、いいわ。回ってたんだから」
師長は画面を閉じた。
---
304号室。
ベッドは空だった。
佐々木義明は、3日前に退院していた。心不全の症状は安定し、自宅療養に切り替わった。記録には、そう書いてある。
だが——
担当医は、首を傾げていた。
「あの夜、誰かいなかったか?」
「あの夜?」
「急変しかけた夜だ。俺が戻った時、投与量を上げたんだが——その前に、誰か、ベッドサイドに立っていなかったか?」
「記録にはありませんけど」
「……そうか」
担当医は、カルテを閉じた。
監視カメラの映像を、誰かが確認した。あの夜、304号室の前。廊下には誰もいない。病室の中にも、患者以外の姿はない。
ただ——
投与ラインに手を伸ばす「手」だけが、映っていた。
腕はない。体もない。ただ、手だけが。
その手は、3秒間、クレンメに触れたまま止まっている。
そして——離れる。
映像は、そこで途切れていた。
---
川沿いの遊歩道。
朝の光が、雪原を照らしていた。
昨夜降った雪が、すべてを白く覆っている。足跡はない。誰も、この道を歩いていない。
だが——
雪の下に、黒い染みがあった。
昨日より、僅かに広がっている。直径は3メートルほどになっていた。縁は相変わらず歪んでいる。だが、その歪みの中に、かすかに人の形が見える。
腕を広げた、人の形。
誰も、それに気づかない。
朝のジョギングをする人は、無意識にそこを避けて走る。犬の散歩をする人は、犬がそこに近づくのを嫌がるのを不思議に思いながら、別の道を選ぶ。
除雪車も、なぜかそこだけ避けて通る。
染みは、静かにそこにあった。
脈打っている。
ドクン。ドクン。ドクン。
次の「罪」を、待っている。
---
[完]
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【ホラー】罪を抱えた者に、怪異は訪れる——百鬼夜行 マスターボヌール @bonuruoboro
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