第3話

 軽い朝食を取り、山への入出記録ノートを確認したところ、ハリソンは十一月下旬に一度山に出入りしていた。その後、十二月中旬から山に入ってから現在ーー三月下旬まで出た記録はなかった。その間も、他の入山者はいたが、全て無事に帰ってきている。

 山の簡易的な地図には、山に入って中腹付近ーー入り口から大体三、四十分先に山小屋があり、その近くに井戸と湖があるようだ。


 家の外を出ると、薄い霧が周囲に漂っている。それは朝に近づくにつれて消えていく類の霧だった。ジャックたちが住んでいるセカンドフォールズよりは格段に空気が澄んでおり、見上げた空には雲がなかった。そのような空を公平はこの国に来て始めて見たとぼんやり思う。

 セカンドフォールズでは、建物から立ち上る濃度の高い煙が昼夜問わず立ち上り、空を埋め尽くしている。純粋に快晴の日が少ないというのもあるだろうが、それにしても異様なほどに晴れがやってこない。

 その割に降水量が少ないのが救いではある。

 脱線した思考の中、公平はジャックに呼ばれ窓口に近寄った。


 ジャックと公平は窓口で入出記録ノートにそれぞれ記入した。歯車が回り始め、大きな鉄製の門がゆっくりと開く。ジャックが先頭を進み始め、公平がその後を追って門を潜った。


****

 

 山の中は所々地面が見えていた。誰かの足跡らしいものもいくつかあったが、それは帰りの道も続いているようだ。ハリソン以外の人物のものだろう。

 奥へ進むごとに、雪はより多く残っている。そうなると、足跡はほとんど消えていた。

 十数分も歩けば身の内が芯まで冷えてしまうほどに、凍てついている。それでも、道に迷わないように、親切に山道にはロープが貼られていた。山道から外れた先に、いくつかのトラバサミが置かれており、それらに捉えられていた動物たちは長く放置されている。二人はそれらに近づいて確認すると、この酷い寒さの中、動物たちは既に腐敗し始めていた。一つ二つであれば取り忘れの可能性もあったが、その量ではなかった。

 ジャックと公平が見つけたトラバサミの内、不自然に開いたトラバサミには動物はいなかったが、布のようなものと血が付着していた。ハリソンが獲物を回収するときに誤って怪我をした可能性も考えたが、二人はどうにも違和感を覚え、近くの木に目印としてロープロ巻いた。


 それらは違和感よりも強いーー酷く不気味な光景だった。


 嫌な予感を覚えながも、二人は山道に沿って更に先に奥へと進む。

 山小屋の周辺は寒さと相まって、異様なほどに静寂に包まれていた。二人は慎重に小屋に近づくと、赤い紐状の何かが雪の間に伸びているのが見えた。二人はその紐のようなものをゆっくりと辿る。酷く憔悴しきった犬がそこに横たわっていた。赤い紐は犬のリードだった。

 周辺にはドッグフードの入っていた袋を噛みちぎったのだろう麻布と、散らばったいくつかのドッグフードらしきものが散乱していた。恐らく、周辺の雪で水を摂取し、散らばったドッグフードを食べて何とか生きていたのだろう。

 犬にはかろうじて息があった。


 公平が犬に呼びかけると、犬は耳を動かした。体を起き上がらせようとしたが、すぐに体勢を崩し、代わりに進もうとしていたであろうーー湖のある方向へ頭を向けて小さく唸った。

「向こうに、何かあるのか……?」

 犬が何かを訴えるような仕草をするのを見て、公平は妙な胸騒ぎを感じた。


 一方、ジャックは小屋の入り口に伸びた赤黒い血痕を発見していた。扉の下から長く続いているようだった。ジャックは慎重に扉に手をかけーー開いた。

 小屋の中には人の気配はなかった。

 古びたストーブは既に燃え尽きており、その上には鍋が置かれ、中のものは焦げていた。鍋をかき混ぜていたと思われる調理器具はカビが生えており、未使用の缶詰が棚に並んでいた。テーブルには一人ぶんの皿やフォークが出ていた。これから食事をしようとしていたのだろう、皿もフォークも使用された様子はなかった。あるいは、これから料理を作っている最中だったのかもしれない。

 切り落とされて腐ったビーツがナイフと一緒に袋の上に置かれていた。

 狩猟用のライフルや未使用のトラバサミ、外出用だろう厚手の服が壁に掛けられたまま残されていた。几帳面な人物だったのだろう。基本的にゴミは袋にまとめられていた。直前に読んでいたと思われる新聞がベッドの上に二つ折りで置かれている。

 部屋の奥に設置されていた毛皮を乾燥させるための棚は、棚数の割には埋まっていなかった。狩りを始めてまだ何日も経っていない。そんな様子だった。

 ドア付近の床には血を乱雑に拭き取った痕跡と、外まで伸びた血痕が確かにあった。


 ジャックが小屋から出て、公平と犬の元に戻る頃、公平は犬とは別に空洞になっているスペースを発見した。何がか置かれていたと思われるそれに公平は首を傾げる。

 ジャックはどうやって犬を運ぶかを考えながら、山を降りて応援を読んだ方が早いかもしれないと頭を悩ませて、ふと公平の様子を見るとそのような状態だったので「どうした?」と声をかけた。

「いや。あそこ、妙に空いてるから。何か元々あったのかなって。」

 そう言われ、ジャックははたと思い出す。祖父がハリソンはソリを持って行っていたと。

「ソリがない。」

「ソリ?」

「ああ。ハリソンが持ってきていた。いや、今はそれどころじゃないな。ハリソンが何か事件に巻き込まれた可能性が高い。小屋には入らないで欲しいが、山を下って応援が必要だ。どちらかが外で待つことになるが、どうする?」

「ジャックが行ってきてくれ。犬の看病をしてるよ。」

 公平の声に犬は僅かに反応を見せるも、直ぐに地面に伏せた。

 弱っている犬を前に二人は別れ、ジャックは急いで山を下った。


****


 ジャックが応援を頼んでから、直ぐに動けたのは在中している交番員だけだった。交番にある電話で、セカンドフォールズ署にも連絡をしたところ、これから支度をして明日に到着になると連絡を受けた。

 その間、交番員と馬車で入山し、弱りきった犬を馬車に乗せて、公平と共に早々に下山させた。ジャックと入れ替わる形で下山する前に、公平は犬が執拗に湖を気にしていたと伝え、ジャックは交番員と共に現場の写真を取りつつ保全を行う。湖へ向かった。


 湖の湖面は氷が張っていた。

 周辺にはハリソンのものと思われる赤いソリが置かれているのを交番員が見つけた。放置されたソリの中には、大量の血痕が黒く変色してこびりつき、その上に血痕のついたネイルハンマーが残されている。さらには散らばった髪の毛や白っぽい固形物がソリの中で転がっていた。

 湖面の氷は一部、穴が開けられた形跡があり、再び凍ったのであろう薄い氷層の窪みには、他の場所と比べて少ないが確かに雪が積もっている。その氷の下に、上から見てもわかるぐらいの何かが張り付いているように見えた。その薄い氷を破るか否か、微妙な判断があり、明日、応援が来てから再びこの場所を捜索しようと決め、ジャックたちは下山した。


 管理者の家に戻ると暖炉の前で犬と公平が温まっていた。犬は最初に見つけた時よりは動けるようにはなっているようだった。

 ノートン兄弟たちにハリソンが何らかの事件に巻き込まれたとして、警察以外の入山を制限する旨を伝えた。スコットもパトリックもそれを承諾し、ハリソンの入山記録から現在までの記録を確認するためのノートと映像を提出した。

 映像は、この町において管理用の家の二階でしか再生できず、ジャックと交番員がそれらと記録ノートを照らし合わせることにして、パトリックと共にジャックと交番員が二階へ向かった。


****


 三人が2階に上がるのを見て、暖炉で温まっていた公平はスコットに話しかける。

「この犬の餌とか買ってこようと思うんだけど、ライアンさんだっけ? お店の場所を教えてくれます?」

「ああ、それなら此処から駅の方に進んで、駅を少し過ぎたあたりにある家だね。多分、今の時間なら店が開き始めてるぐらいだと思う。あ。そうだ。悪いけど、そこまでいくならついでに、駅で新聞を買ってきてもらえないかい?」

 犬は弱々しく立ち上がりながらも暖炉にもう少し近づき、再び地面に丸まった。そのまま目を閉じて静かに呼吸を繰り返す。

「ええ。新聞は僕たちも読むので買ってきますよ。」

「ありがとう。」

 公平は再び厚手の上着を着込み、ドアを出ていった。

 公平が外に出ると、メアリーと思われる婦人が近くの家の二階窓からこちらを見ているのが見えた。


 霧は既に晴れており、山の中と比べて街中はだいぶ雪が溶けている。アラトンの駅で新聞紙を買い、そのまま公平はライアンの店に向かった。

 スコットが言っていた通り、ライアンの店は絶賛開店準備中だった。木造の家に接合する形で増設したと思われる店で、しかし、店だとは一目でわかる外観である。お店の前にはスコットたちと同じぐらいの年齢の男性が店の前に二つ折りの看板を設置している最中だった。

「おはようございます。」

 公平は一先ず、その男に声をかけた。

 男は驚きながらも公平を見て「ああ。おはよう。」と動揺気味に挨拶を返した。

「旅の人……かな?」

「まあ、そんなところです。ノートンさんのところに泊まらせて貰ってて。」

「ああ。昨日の夜にレンツさんの知り合いが来たってのは聞いたな。君だったのか。」

「その人との知り合いは、一緒に来たもう一人の方ですね。」

「そうか。それで、君は何かを買いに来たのか?」

「犬の餌が欲しいんだけど、その、弱っている犬でも食べられるものがいい。」

「犬の餌か。珍しいね。君の?」

「いえ、違います。」

 店の男は怪訝そうな顔つきで「ノートンさんたちは犬を飼ってないだろ。誰の犬だ?」と尋ねた。公平は少し考えつつ、事実を話そうと口を開く。

「恐らく、ハリソンさんの犬です。」

 男は大きく目を見開いた。

「ハリソンの……? 何があった?」

「まだわかりません。ただ、山小屋で犬だけ見つけました。」

「そうか……そうか。そうか。」

 男は沈んだ顔つきでその場にしゃがみ込んだ。暫くして、よろよろと立ち上がり「犬の餌だったな。すぐ持ってくる。」と店の中へと消えていく。

 店の奥では男と同じ年齢だろう女ーー男の妻だろう人が心配するようにこちらの様子を伺っているのが見えた。男は奥の部屋に入って、思いの外早くに戻ってくる。手には山小屋で見かけた袋があった。戻ってきた男からその袋を受け取る。

「いくらですか?」

「いや。お代はいいよ。」

「え? いやー、それは困ります。」

「ハリソンの犬なんだろ? 犬の名前、知ってるか?」

「いえ……。」

「ジャッキーって名前だ。あいつはこの餌が好きだったんだ。元気になったら顔を見せてくれ。ハリソンは……。いや、今は生きていると信じるよ。」

 男は額付近に片手を当ててため息を吐き出す。なんと声をかけていいのか、公平は戸惑いつつ

「では。その……また来ます。」

 そう声をかけると男は「ああ。」とだけ呟いた。


****


 公平が家に帰って歩いていると近くの家からメアリーと思わき年配の女が公平に向かって歩いてくる。栗色の髪に深いブラウンの瞳を持った彼女は慌てた様子で「ちょっと止まって!」と叫んだ。

 公平は驚きつつも立ち止まり、青色の厚手の服を着た女が駆け寄ってくる。

「ねえ、あなた。パトリックたちに何があったの?!」

「パトリックに……いえ、彼らには何もないと思いますが?」

「嘘よ。交番の警察が家に入るのを見たわ!」

「落ち着いてください。警察が家には入りましたけど、ノートン兄弟には何もありませんよ。」

「じゃあ何?!」

「詳細は少し待ってください。恐らく、この町に住んでいる人ーーあなたにも話を聞きに行くことにはなると思います。」

「それは、どういう……。」

「詳しくは話せません。ただ、その時は警察に協力してあげてください。」

 公平が極めて冷静に、そして優しく話すと女性は困惑しつつも、一度視線を管理用の家を見た。

「わかったわ。ごめんなさい。少し不安だったの。また夕飯を持っていくわ。」

「大丈夫です。それでは。」

 公平は軽く会釈して管理用の家に戻る。


 家の前で公平がノックをすると、暫くしてスコットがドアを開け、公平を中へ招いた。

「これが新聞です。」と公平はスコットに勝ったばかりの新聞を手渡しながら伝える。

「おや。先に見てしまっていいのかい?」

「はい。あの犬……ジャッキーの食事を先に用意したいので。」

「……そうか。あとで俺も様子を見に行くよ。」


****


 その後、ジャックと交番員はほぼ一日中二階にいて、生理的な事象以外で一階に降りてくることはなかった。

 陽が沈む頃にはメアリーが夕飯を持ってきて、パトリックたちと少し話して帰り、弱っていた犬は夜になると完全ではないが、だいぶ回復したようで暖炉の近くでウロウロと歩き回るまでになっていた。

 その一連を公平は静かに見守るに留めた。

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