第8話「では。ご唱和ください!」
ホワイト氏のスピーチは、終始、示唆に富んだ内容だった。
「固定観念という垢を落とし」「淀んだ思考は追い焚きし」「新しいアイデアの源泉を探し続けよ」など、彼が口にするたびに、わたしだけが別の意味を想像してしまい、生きた心地がしなかった。
そして、いよいよ歓迎セレモ'ニーも終盤に差し掛かった。
社長が「では最後に、ホワイト新役員より、我々に気合の入る一言をお願いします!」と締めを促した。
ホワイト氏は、にこりと頷くと、再びマイクを握りしめた。
全社員の視線が、一点に集中する。
伝説の経営者は、一体どんな言葉で我々を鼓舞してくれるのだろう。誰もが固唾を飲んで見守っていた。
彼は、ゆっくりと息を吸い込むと、チャコールグレーのスーツの上着のボタンをひとつ外し、やおら右の拳を高く、天に向かって突き上げた。
「では。ご唱和ください!」
え? ご唱和?
社員たちがキョトンとする中、ホワイト氏は、今朝のバスルームでのキレを完全に再現したフォームで、腹の底から叫んだ。
**「ホアたぁっ!」**
しーーーーーーーーん。
大会議室が、水を打ったように静まり返った。
社長は口を半開きにし、他の役員たちは瞬きを繰り返している。誰もが、今、目の前で起こったことが理解できずにいた。
(やった、やりやがった、このじいさん……!)
わたしは顔から火が出るのを通り越して、もういっそ灰になりたかった。
しかし、次の瞬間、事態は誰も予想しなかった方向へと転がった。
「……ぷっ」
静寂を破ったのは、営業部のエース、鈴木さんの噴き出す音だった。
それを皮切りに、一人、また一人と、こらえきれない笑いが漏れ始める。
「な、なんだよそれ!」
「ホアたって!」
やがて、その笑いは波のように会議室全体に広がっていった。
社長も肩を震わせ、他の役員たちも顔を赤くして笑っている。
緊迫していた空気が一気に和み、むしろ、不思議な一体感が生まれ始めていた。
当のホワイト氏は、満足げに社員たちの顔を見渡すと、もう一度、悪戯っぽく笑って拳を突き上げた。
「さあ、皆の者! 声が小さいぞ!」
その言葉に、一番最初に噴き出した鈴木さんが、照れながらも拳を突き上げた。
「……ほ、ホアた!」
それに続くように、隣の席の佐藤さんも、おずおずと拳を上げる。
「ホアたぁ……」
「もっと腹から声を出せ!」
「そうだ、その調子!」
ホワイト氏の檄が飛ぶ。
まるで何かのスイッチが入ったかのように、社員たちは次々と立ち上がり、照れくさそうに、しかし楽しそうに、拳を突き上げ始めた。
そして、ついに。
**「「「ホアたぁーーーーっ!!!」」」**
全社員の声が一つになった、謎の合唱が大会議室に響き渡った。
わたしも、もうどうにでもなれという気持ちで、周りに合わせて拳を突き上げていた。
会社の新しいスローガンが「ホアた!」に決まった瞬間だった。
伝説の役員は、就任初日にして、社員たちの心を完全に掌握したのだ。
わたしは天を仰いだ。
(わたしの平穏な会社生活、さようなら……)
これから毎日、朝礼でこれをやらされることになるのだろうか。
そんな不安と、なぜか少しだけワクワクする気持ちが入り混じった、奇妙な一日が始まった。
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