第7話ガンダルフ・G・ホワた
息を切らし、タイムカードをギリギリで滑り込ませて自分のデスクにたどり着くと、隣の席の佐藤さんがひそひそ声で話しかけてきた。
「おはよー! 危なかったね! 今日は絶対遅刻できない日だよ」
「え、なんで?」
「知らないの? 今日から新しい役員が来るの。その歓迎セレモニーが10時からあるから、全員会議室に集合だって」
へえ、新役員。確か、どこかすごい外資系のコンサルから引き抜かれた、伝説的な人物だとかいう噂だったか。まあ、わたしのような平社員には、雲の上の存在だ。
そして午前十時。
社員がぞろぞろと大会議室に集められ、社長が少し緊張した面持ちで演台に立った。
「えー、皆さん、お集まりいただきありがとうございます。本日は、皆さんに素晴らしいニュースがあります。本日付けで、当社の取締役に、ガンダルフ・G・ホワイト氏が就任されることになりました!」
盛大な拍手が巻き起こる。
ガンダルフ……? どこかで聞いたような……。
そんなわたしの疑問をよそに、会議室のドアがゆっくりと開き、一人の老人が入ってきた。
その姿を見て、わたしは持っていたボールペンを床に落とした。
は?
そこに立っていたのは、紛れもなく、今朝方わが家のバスルームで紅茶シャワーを浴びていた、あの「ガンダルフじいさん」だった。
長い灰色のローブではなく、体にぴったりと合った最高級のチャコールグレーのスリーピーススーツ。手には杖ではなく、艶のあるレザーのブリーフケース。トレードマークだった長い白髭は、綺麗に整えられ、威厳すら感じさせる。
バスルームで拳を痛めて泣いていた、あの情けないおじいちゃんの面影はどこにもない。あるのは、百戦錬磨の経営者だけが放つ、鋭いオーラだった。
じいさん、いや、ホワイト氏は、穏やかな笑みを浮かべて演台に立つと、マイクを手に取った。
「諸君、おはよう。紹介にあずかったガンダルフだ」
その声! 間違いない!
脳内に直接響くような、あの低くて荘厳な声だ。
周りの同僚たちが「すごい貫禄だな」「オーラが違う」と囁き合っている。わたしだけが、血の気が引くのを感じていた。
「わしは、物事の本質を見抜くのが得意でな。特に、温かい環境でリラックスしている時に、良いアイデアが浮かぶものだ。諸君も、煮詰まった時は一度、全てを洗い流してみることをお勧めする」
意味深な言葉に、社員たちがほう、と感嘆の声を漏らす。
(洗い流すって、物理的に!? バスルームで!?)
わたしだけが、その言葉の裏にある、カモミールの香りを思い出していた。
そして、スピーチの締めくくり。
ホワイト氏は社員一同をゆっくりと見渡し……ピタリ、とわたしの目で動きを止めた。
まずい。
彼の目が、ほんの少しだけ、悪戯っぽく細められる。
そして、演台の陰に隠れた右手が、ほんのわずかに持ち上げられ、人差し指と中指で、くいくい、とあのポーズを取ったのだ。
周りの誰にも気づかれない、わたしだけへのサイン。
「……っ!」
わたしは凍りついた。
顔が一気に熱くなり、心臓が早鐘を打つ。
これは現実? それとも、長風呂が見せた壮大な悪夢の続き?
歓迎の拍手が鳴り響く中、わたしはただ一人、これからの会社生活に、言いようのない戦慄を覚えていた。
伝説の新役員の正体は、うちの風呂で「ホアた!」と叫んでいた、おじいちゃん。
この秘密、墓場まで持っていかないと……!
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