第9話「わたしの、その……ハダカ、見ましたよね?」
「ホアた!」の大合唱が巻き起こした一体感はすさまじく、その日の社内はどこか浮き足立っていた。すれ違う社員たちが、意味もなく「ホアた!」と挨拶を交わす始末だ。すっかり会社の共通言語になっている。
わたしはというと、仕事がまったく手につかない。
モニターを見つめていても、頭に浮かぶのはチャコールグレーのスーツで「ホアた!」と叫ぶ新役員の姿と、バスルームで拳を痛めて泣いていたおじいちゃんの姿だ。情報量が多すぎて、脳がショート寸前だった。
(どうしよう……これから毎日、この会社で……)
耐えられない。このモヤモヤを抱えたまま、明日からも「ホワイト取締役」として彼に接するのは絶対に無理だ。
わたしは覚悟を決めた。
終業後。
役員室の前に立ったわたしは、数回深呼吸をして、重厚なドアをノックした。
「どうぞ」
中から、あの荘厳な声が聞こえる。
「失礼します……あの、ホワイト取締役」
「おお、君か。どうしたのかね?」
ホワイト氏は、大きなデスクで書類に目を通していたが、顔を上げてにこりと微笑んだ。昼間の狂騒が嘘のような、穏やかな表情だ。
今しかない。
わたしはドアを閉めると、まっすぐ彼に向き直った。
「あの……ガンダルフさん?」
意を決してそう呼ぶと、彼の眉がぴくりと動いた。
「……今朝のこと、なんですけど」
ごくり、と唾を飲み込む。
「わたしの、その……ハダカ、見ましたよね?」
言った。ついに言ってやった。
これで、何か反応があるはずだ。しらを切るか、それとも謝罪するか……。
しかし、彼の反応はわたしの予想を遥かに超えていた。
ホワイト氏は、わたしの言葉を聞くと、カッと目を見開き、椅子から勢いよく立ち上がった。そして、信じられないという表情で、デスクに両手をつき、身を乗り出してきた。
**「なにぃぃぃぃぃっ!!」**
役員室中に響き渡る、雷鳴のような大声。
ガラスがビリビリと震えるほどの声量だった。
「ちょ、ちょっ、と! 声が、声が大きいです!!」
わたしは慌てて人差し指を口に当てて「シーッ!」とジェスチャーする。
ドアは閉めたとはいえ、外に誰かいたら丸聞こえだ。
「新役員が女性社員に『ハダカを見ただろ』と詰め寄られている」なんて噂が立ったら、社会的に終わる。色んな人が。
しかし、ホワイト氏の動揺は収まらない。
「わ、わしが……君の……? そんな破廉恥なことを……!? いつじゃ! いつの話じゃ!?」
は?
本気で言ってる? このじいさん、まさか……。
「い、今朝です! うちのバスルームで! 紅茶シャワーとかポテチとか出してくれたじゃないですか!」
「紅茶シャワー!? ポテチ!? な、なんのことじゃ……わしは毎朝、執事の淹れたアールグレイを飲みながら経済紙を読むのが日課じゃぞ!?」
彼の目は、嘘をついているようには見えなかった。
そこにあるのは、純粋な混乱と、身に覚えのない罪を着せられたことへの驚愕だけだった。
(……まさか)
わたしの頭に、ひとつの可能性がよぎる。
(夢……? いや、でもポテチは……)
だとすると、今朝わたしが出会ったのは一体誰だったんだ?
そして、目の前にいるこの人は……?
混乱するわたしの前で、威厳ある新役員は「わしはそんな……滅相もない……」と顔を真っ赤にしながら、ぶつぶつと呟き続けていた。
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