最終話 猿より賢くなれるまで
「貧血と熱中症ね。しばらく安静にしてれば大丈夫よ」
俺が抱きかかえて運び込んだ戻坂を診察して、女性の保健医はそう言った。
「あなた……えーと、何くんだっけ? 教室から彼女の荷物を持ってきてくれる? 落ち着いたら家に帰すことになると思うから」
俺の胸中は怒りを含んだ感情でぐちゃぐちゃになっていたが、保健医のその冷静な指示によって急速に冷えていった。
教室に戻ると、他には誰もいなかった。
どうやら何事もなかったかのように体育の授業は継続中らしい。
それもそうだ。俺の経験からいっても、1人熱中症になったくらいで授業が中断することはない。
戻坂だけが特別なんてことはない……。
戻坂の席に向かい、机の横にかけてあったカバンを天板の上に置くと、物入れの中を覗き込んだ。
筆記用具と教科書、ノートがいくらか突っ込んである。
幸いにも置き勉派ではなかったようだ。今の心境で重い荷物を運ぶのは気が滅入る。
俺は物入れの中身を引っ張り出して天板の上に置くと、戻坂のカバンのファスナーに手をかけた。
カバンの中を見るのは少し気が咎めるが……今回ばかりは仕方がない。
ファスナーを開く。
と、その中に見覚えのあるノートがあった。
このノートは……。
俺との訓練のデータを戻坂がまとめていた、あのノートだ。
なんでまだこのノートを持ってるんだ?
訓練はしていないのに……書き込むべきデータなんてないはずなのに……。
まさか……本当に俺の代わりを作って……?
それを望んでいたはずなのに、今はどういうわけか、その可能性が恐ろしく感じた。
戻坂美遠という少女が何者なのか――俺の知らない正体が、このノートに秘められているような気がして。
見ればきっとはっきりする。
俺には求める資格がないと思っていた答えが。
戻坂美遠という女子のすべてが。
俺は逡巡し……しかし結局、見なかったことにする勇気はなく。
カバンの中から、そのノートを取り出した。
『対象と遭遇。面倒なナンパから助けてもらった。
彼は去っていくナンパ男に対して憐れみの目を向けていた。予想外の行動。
かねてより計画していた実験の対象に彼を選ぶことにする』
ノートは実験記録のようであり、日記のようでもあった。
『彼に訓練のことを切り出す。説明代わりに接触訓練Aを試みた。
予想よりも拒絶が少ない。やはり男子は女子に迫られると憎からず思うものなのかもしれない。
不思議である。極めて』
まるでカルテのような淡々とした言葉で、あのナンパから助けた日以降の出来事が綴られている。
『下着姿での接触訓練。
自慰行為よりも強烈な快感を確認。心拍数も過去最高をマークしている。
事前の警戒に比して恐怖は少なかった』
恐怖?
怖がっていた……のか?
あの淡々とした顔で?
『対象から絶頂訓練の禁止を提案される。
パブロフの犬となってしまう危険性。一理あると感じた。
だけど、こんな状態で放り出されてしまうのは……ちょっとだけ、困る』
俺が知っている、無感情で何を考えているかわからない天才の後ろに、俺の知らない少女が見え隠れする。
それは先日、俺が拒絶した少女と同じ顔をしていた。
『今日はデート訓練を実施した。
ショッピングモールでお互いの買い物に同行する。
読書の趣味が意外と合うらしい。
その後、彼と親しいらしい女子に遭遇した。
恋仲のようには見えなかったものの、私の脈拍には異常が確認された。
私?
どうしてだろう。ボクという一人称に、最近少しだけ、羞恥を感じる』
俺は……戻坂が急に変わったように見えていた。
感情に振り回されて、本来の自分を見失ってしまったんだと。
それに失望して……関係を終わらせてしまった。
しかしそれは間違いだったのだ
何を考えているかわからない天才だなんて、それは単なる俺の思い込みで――彼女は、最初から。
『おそらく最後の訓練。
彼に私の中に芽生えた感情を指摘された。
その瞬間、まるで知恵の実を食べたアダムとイブみたいに羞恥心が膨れ上がり、
私はもはや彼の前にはいられなくなってしまった』
『彼を訓練相手に選んだのは偶然であり、必然だった。
教室で彼を観察していた時から、彼には私と似たものがあると感じていた。
ただ、私よりも少しだけうまくやっているだけで、
彼もまた社会と向き合う機能に欠陥を抱えていると』
『私は感情が恐ろしい。
自分に向けられる感情も、自分が誰かに向ける感情も恐ろしい。
それに支配される自分を想像すると、身体がすくんで動けなくなる』
『だけどそのままではダメだとわかっていた。
練習相手が欲しいと思っていた。この気持ちを理解してくれる練習相手が。
そうすればきっと恐怖は解体され、未知は既知になり、感情は理屈となる』
『それが恋愛感情に成長する未来を予想できなかったわけじゃない。
ただ見ないふりをしていただけなのだ。
気付かないふりさえしていたら、彼は私に触れてくれるのだから』
『私の卑怯さを、彼は明敏に嗅ぎ取った。
それは私が求めた通りの聡明さであり、私が恐れた通りの厳格さだった。
だからこれは自業自得なのだ。
私自身の業が生んだ当然の結末なのだ』
『私はこの結末を受け入れ、1人で自分を慰めながら生きていくしかない』
保健室のベッドに身を横たえた戻坂美遠が、うっすらと瞼を開けた。
ベッドの横に置かれた丸椅子に腰掛けていた俺は、小さく笑いながら声をかけた。
「よう。気分はどうだ」
「……………………」
戻坂はぼんやりとした目で俺を見つめ、寝言みたいな声で言った。
「私は……夢を見ているのでしょうか」
「現実だよ。申し訳ないけど」
戻坂は保健室の天井に視線を移すと、ふうっと大きめに息をついた。
「……すみません」
彼氏さんとは言わず、彼女は言う。
「私……嬉しくなってしまいました」
「なんで謝る。勝手に嬉しくなっとけよ」
「だって……」
「謝るのは俺の方だ」
戻坂が理屈をこねる前に、俺は膝に肘をついて言った。
「俺がしたのは八つ当たりみたいなもんだ。
勝手に期待して、勝手に思い込んで、勝手にがっかりして……。
お前には恋愛感情なんてないと思ってた。
いや、そうあってほしいと求めてた。
俺にとって、そっちの方が都合が良かったんだ」
俺がやったのは、戻坂があの男子にやったことと同じだった。
彼女自身が知りたくなかった本性を、無遠慮に暴き立てる行為だった。
あるいはそれは、感情を分析して恐怖を解体したいという彼女の目的には適うものだったかもしれないが、まるで悪を断罪するかのようにそれを行ってしまったのは、俺の身勝手がゆえだ。
「同じであってほしいと……思ってたんだ。お前には……。俺と同じように、誰かを特別にすることに、誰かの特別になることに怯える人間であってほしいと……」
だから裏切られたような気持ちになった。
俺たちは互いに互いを特別にしないまま、臆病さを埋め合っていけるものだと思い込んでいた……。
そんなもんコントロールできるわけねえって、本当はわかってたのに。
戻坂は枕の上からじっと俺を見つめ、それから枕元の自分のカバンを見た。
「読んだんですね……あのノートを」
「悪い。でも……見て見ぬふりは、もうできねえと思って」
「いえ……その方が良かったです」
戻坂はうっすらと、自嘲するみたいに笑った。
「きっと私には……きちんと告白する勇気は、なかったと思うので」
戻坂の突飛で不条理な行動の理由を、俺はもう理解している。
きっと彼女の中には、誰かが自分を見る視点が欠けていた。
一人きりで育てた自意識を、他者に観察されるという概念が欠けていた。
だから、小説に影響された一人称を何の屈託もなく平気で使っていたし、相手にどう思われるかわからない行動でも迷いなく取ることができた。
アダムのいないイブに、局部を隠す理由はない。
「俺に比べれば……お前はずっと勇者だよ」
「そうでしょうか」
「だってお前……俺があのルールを提案しなかったら、最後まで行くつもりだっただろ」
俺にはとてもそこまでの責任を取る勇気はなかった。
しかしこいつには、俺とどこまでも沼に落ちていく覚悟があったのだ。
「なんでそこまで身体を張れたんだ? 俺が訓練相手として適格だったから……本当にそれだけか?」
「さあ、どうでしょう……。顔が好みだったのかもしれません」
「本気で言ってんのか?」
「最初に言いましたよ。欲望を克服するための訓練だと。私の欲望があなたを求めない限り、訓練として成立しません」
「……確かにな」
俺だって、戻坂が好みとは似ても似つかない相手だったら、あんな訓練はできなかった。
好みではあったわけだ。お互いに。
「どうですか、彼氏さん」
どこかすがるように、戻坂は再びその呼び方で俺を呼んだ。
「彼氏さんさえよければ、今からでもこの身体を自由にさせてあげますよ。ちょうど都合よくベッドもありますし」
「エロ漫画じゃねえんだ。こんなところで滅多なことできるかよ」
「ナマでさせてあげますよ?」
「できねえよ」
俺は緩く首を横に振った。
「やっぱり俺にはできない。もしもう一度俺とそういうことがしたいんだったら――俺のことを心から、口説き落としてみろよ」
身体だけの関係はもう終わりだ。
もし次があるとしたら、その時は――然るべき手順を踏んで、心を通わせ合った時になるだろう。
戻坂は寂しげに微笑む。
「……結局……猿より賢くなんてなれませんでしたね」
「そうでもない。いつかはきっとなれるさ」
「いつかって……いつですか?」
「そうだな……結婚して子供を育てて、ジジイやババアになった時とか?」
俺のその答えに、戻坂は呆気に取られたように目を瞬いた。
凡人にでも簡単にわかる――それは天才なんて言葉ではくくれない、普通の女の子の表情だった。
そうだ。
焦る必要はない。
人生はこれから――長いのだから。
「そういえばさ、戻坂。知ってるか?」
俺は立ち上がって。
賢くなれる、とびっきりの知識をクラスメイトの女子に与える。
「――猿以下になった後のことを、賢者モード、って言うんだぜ」
それを聞くと、戻坂は――
初めて、声を出して笑ったのだった。
ぼっちの地雷系をナンパから助けたら、翌日から彼女ヅラを始めた 紙城境介 @kamishiro
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