第6話 被害者の懺悔

 あれから数日が経った。

 これまでのテンポで言えば、とっくの昔に戻坂から呼び出しを受けている頃だが、連絡はぱたりと途切れていた。


 当たり前のことである。

 俺たちの関係は終わったのだ。

 戻坂の、ある種の裏切りによって……。


 俺たちの行為は、あくまで性欲の解消ではなく、『性欲の克服』のための訓練である。

 だから本人の言うところの限界である2日を超えて欲望が溜まったとしても、あいつがその解消に難儀するということはないだろう。

 今までのようにベッドの中でもぞもぞするだけ。


 しかし――もし。

『性欲を克服する』という彼女のテーマが棚上げされないのだとしたら。

 戻坂は、俺の代わりを探すのだろうか。


 そうであってほしいと願っている自分がどこかにいる。

 だって、そうであれば……俺は彼女にとって『特別』ではなかったということだから。

 世界に何十億人もいる人間のオスの1人だった、ということだから。

 俺は選ばれたわけじゃなく……ただたまたま、そこにいただけだったことになるから。


 探そうと思えば候補はいくらでもいるだろう。

 例えば――

 以前噂になった、戻坂に告白した男子とか。


「おい、あいつだぜ」


 戻坂や幼馴染みに頼るまでもなく、俺にだって昼休みを共にする男の友人が1人か2人はいる。

 そのうちの1人と、飯を食う場所を探して校内をぶらついていた時、そいつがグラウンドにいる1人を指さして言ったのだ。


「前に話した、戻坂に告ったっていう猛者だ」

「……へえ、あいつが」


 俺は興味のない素振りをしながら相槌を打った。

 この友人は俺と戻坂の関係を知らない。

 ただ、教室で俺が彼女に『彼氏さん』と呼ばれたことを知っているだけだ。


 あの件は、ナンパ除けに勝手に彼氏を名乗ったことを戻坂がからかっているだけ、ということにした。

 真実をベースにした嘘が一番信じられやすいというのは本当らしい。


 友人が指差した男子は昼休みだというのに体操着姿で、一心にハードルを飛び越える練習をしていた。

 それは凄まじい集中力だった。

 滝行をしている修行者とか、座禅を組んでいる坊さんとか、そういった類の、静謐な印象を抱かせるハードル練習だった。


「ずいぶん筋肉質なやつだな」

「陸上部のエースらしいぜ。もともと真面目なやつではあったらしいが、戻坂に振られてから人が変わったように練習に打ち込むようになったって話だ」

 

 失恋ってのも馬鹿にできねえよな、と友人はパックのコーヒー牛乳を吸いながら言った。

 戻坂に振られて人が変わったと聞いて、俺は勝手に廃人みたいになった姿を想像していたが、意外にも良い方向の変化だったらしい。

 恋愛に割いていたエネルギーが部活に向かった結果か。


 それを思うと、恋愛感情ってのはどんだけ無駄が多いんだろう。

 気の遠くなるようなパワーが、キスをしたいとか胸を触りたいとか、そういう欲望に吸い取られていることになる。


 無心でハードルを飛び続けるそいつの顔を、俺はしばらく見つめていた。






 なんとなくまっすぐ家に帰る気になれなくて、しばらく校舎の屋上で時間を潰した。

 夏を帯び始めた空が赤く染まるのを見て、俺はオーディオブックを流していたイヤホンを外す。

 すると途端に、遠くから部活に励む真面目な生徒たちの声が響いてきた。


 俺は何気なくその声に引き寄せられ、転落防止用のフェンス越しにグラウンドを見下ろす。

 その一角には、昼休みに見たのと同じ光景が広がっていた。

 あの男子生徒が、一心に無心に、ハードルを飛び続けているのだった。


 それは『真面目に部活に励んでいる』という範囲を超えた、どこか異常な光景だった。

 実際、周りには他の陸上部員が見当たらない。

 まるで遠巻きにするように、彼の周りだけがぽっかりと空いている。


 ……彼は戻坂に何を言われたんだ?

 失恋したってだけで、あんなにストイックになれるものなのか?


 これは未練か?

 戻坂との関係は終わったのに、俺はまだしがみつこうとしているのか?

 そうだとすれば、それは性欲の奴隷以外の何者でもない。


「……………………」


 だからこそ……見極めるべきか。


 俺はのろのろと屋上から校舎内に入り、一旦昇降口を経由してグラウンドに向かった。

 その頃には下校時刻が近づいていて、陸上部員も撤収を始めていた。

 例の男子も、大量の汗を流しながら並べたハードルをまとめているところだった。


「すまん、ちょっといいか」


 声をかけると男子が振り返り、俺の顔を見て少し怪訝そうにした。

 それから、はっと眉を上げて、


「……戻坂の彼氏……」

「……その噂、別のクラスにまで流れてんのかよ」


 俺が作り上げた素晴らしいカバーストーリーは、別のクラスにまでは到達しなかったらしい。


「その誤解を解くのも含めて、ちょっと聞いてみたいことがあんだ。この後いいか?」


 男子は顔をそらし、どこか暗い表情を作った。

 しかし数秒すると、俺の方へ顔を戻し、


「そうだね……。懺悔をするなら、君がいいのかもしれない」


 懺悔。

 いきなり飛び出してきた物騒な単語に、『やめておけばよかった』という後悔がよぎった。






「一目惚れだった」


 と、コンビニの前で買ったばかりのコーラを片手に、そいつは語り始めた。


「誇張抜きで天使のように見えた。朝見かけるたびにその姿を目で追って、網膜に焼き付けていた。

 気持ち悪いかもしれないけど、教室の前をわざとうろついて、席に座っているのを盗み見たりもした。

 でも、これだけは言いたい。僕の気持ちは極めて純粋だったんだ。

 子供っぽい憧れみたいなものだったんだよ。

 邪な気持ちではなかったはずだって、今でも僕自身は思っている」


 だけど、とそいつは続ける。


「それを彼女に直接伝えると、彼女は首をかしげた。

 少し目を細めて、何かを読み取ろうとするみたいに僕の顔を見た。

 それからいくつかの質問をしたんだ」


 どんな質問だったんだ、と聞いたが、彼は覚えていないと首を振った。


「当時テンパっていたのもあったし……脳が覚えるのを拒否したのもある。

 ただ一つはっきり覚えているのは、いくつかの質問の末に彼女が口にした結論だ」


 ハードな運動をしてきたばかりとは思えない青白い顔で、彼は言った。


「性欲だ、と彼女は言った」


 身を切り裂かれているような苦しみを添えて、彼は吐き出した。


「僕の気持ちを……性欲だと。猿でも知っているような生物的な欲求だと。

 根拠を挙げて、詳細な分析を加えて、僕の感情をそう結論付けた。

 もちろん僕は否定したさ。そんなわけがないって言った。僕の気持ちは純粋だって。恥を忍んで、彼女をオカズにしたことがないってことまで言った。

 だけど彼女は……無言で指さしたんだ」


 どこを? と恐る恐る尋ねると、彼は深くうなだれながら言った。


「僕の……股間を」


 話を聞いているだけなのに、ぞわりと怖気が走った。


「僕の感情に対する彼女の分析を聞いているうちに……いつの間にか、勃起していたんだ。

 僕の身体が、彼女の言い分を認めてしまっていたんだ。

 その瞬間、僕は目の前が真っ暗になった。

 今までに経験したことのない恥ずかしさと自己嫌悪が襲ってきて、もう何もわからなくなってしまった。

 気付いた時には家にいて……スマホからは、いくらか保存してあったエロい画像がなくなってた。

 それから僕は――ただの一回も、性的な興奮を覚えたことがない」


 愕然とした。

 EDになったというのか。

 ただほんの少しの、戻坂とのやり取りで。


「部活に打ち込むようになったのは、なんて言うのかな……自分に罰を与えたくなったからなんだ。こんな情けない自分を痛めつけたかった……。結果として成績が伸びたんだから、彼女には感謝するべきなのかもね……」


 そう言って彼は力なく笑った。

 しかし紛れもなく、それは『破壊』だった。

 戻坂美遠は――1人の少年を破壊してしまったのだ。


 なぜ彼女が彼の感情を分析・解体したのか、俺にはわからない。

 彼女の何がそうさせるのか、俺にはわからない。


 戻坂は何を求めている?

 戻坂は何を欲している?

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