第9話 空振りの代償
ダンジョン探索において、MP切れは死を意味する。
だが、俺(1円=1MP)の場合は、意味合いが少し違う。
MP切れは「破産」を意味するのだ。
「――っ、ちょこまかと!」
地下2階層の奥深く。
俺は焦りながら右手を振るった。
「《ウィンド・カッター》!」
放たれた真空の刃が空を切り、虚しく地面を抉る。
狙っていた『コボルト・アサシン』は、すでにそこにはいなかった。
残像を残すほどの速さでバックステップし、俺を嘲笑うようにキーキーと鳴いている。
(くそっ……! 今ので30円がドブに!)
俺は奥歯を噛み締めた。
攻撃を外す。それは今の俺にとって、被弾すること以上に精神衛生上よろしくない。
ダメージ0。コスト30円。
完全なる「損」だ。
『カナタ、少し焦ってるわよ。偏差射撃の予測が甘い』
インカムから、雫の冷静な声が響く。
以前のような棘のある言い方ではなく、あくまで客観的なアドバイスだ。
「わーってるよ。でも、モニター越しに見るよりずっと速いんだって、こいつら」
『同接補正で動体視力は上がってるはずよ。落ち着いて。……無駄撃ちは、あんたが一番嫌いでしょ?』
「……違いない」
雫の言う通りだ。
俺は深呼吸をして、カメラに向かって営業スマイルを作る。
「おっと、すまんみんな! 今の空振りは愛嬌だ! ちょっと動きのいいレア個体がいるみたいだな」
《ドンマイ》
《今日エイムガバガバじゃね?》
《素早い敵は魔法職の天敵だからなー》
《落ち着け、当てれば勝てる》
コメント欄の励まし(と少しの野次)がありがたい。
俺は冷静さを取り戻し、動き回るコボルトの動きをじっと観察する。
規則性があるはずだ。右、左、後ろ……そこだ!
「《ウィンド・カッター》!」
着地狩り。
回避先に置いておくように放った刃が、見事にコボルトの首を捉えた。
「よっしゃ! 回収完了!」
俺は拳を握りしめ、魔石を拾う。
これで30円の赤字は帳消しだ。……いや、トントンか。
戦闘を終え、俺は通路の壁に背を預けて水を飲んだ。
「ふぅ……。雫、今の収支は?」
『ギリギリ黒字だけど、利益率は低下してるわね。俊敏な敵に対して、魔法の命中率が6割を切ってる。これじゃあ「弾薬」の浪費よ』
雫の指摘はもっともだ。
範囲魔法で焼き払えば必中だが、それではコストが高すぎる。
単体魔法で確実に仕留めたいが、外せばゼロ。
このジレンマ。
『そろそろ潮時かもね。今日はここで切り上げて、装備を見直す?』
「いや、まだ行ける。同接も2,000人を超えてるし、ここで終わるのは勿体ない」
俺は欲をかいた。
今のペースなら、あと数万円は稼げる。
シオリのために、少しでも貯金を増やしておきたい。
「もうちょっと奥まで行ってみるよ。ボス部屋の手前までな」
『……わかったわ。でも、無理はしないで。私の勘だけど、この階層の空気、少し淀んでる気がする』
雫の勘はよく当たる。
だが、俺はその警告を「慎重すぎるマネージャーの杞憂」として受け流してしまった。
数分後。
広大な空洞エリアに出た俺は、その選択を後悔することになる。
『――ッ! カナタ、止まって! 上よ!』
雫の鋭い警告音。
俺が反応するより速く、天井の闇から「それ」は降ってきた。
ドンッ!!
目の前の地面が爆ぜる。
爆心地に立っていたのは、四足歩行の獣だった。
だが、ただの狼じゃない。
体長2メートル。青白い毛並みにはバチバチと静電気が走り、足元には竜巻のような風を纏っている。
「グルルルルゥ……」
喉を鳴らす音だけで、空気がビリビリと震える。
D-Statusアプリが、警告色の赤で数値を弾き出した。
【識別名:疾風の狼(ゲイル・ウルフ)】
【推定ランク:C+(ネームド)】
【特性:風属性無効、超高速機動】
「おいおい……嘘だろ?」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
エリアボスだ。しかも、今の俺が一番苦手とする「高機動タイプ」。
さらに最悪なことに。
『風属性無効……! カナタ、あんたの得意な《ウィンド・カッター》(30円)が効かないわ!』
安くて速い風魔法が封じられた。
つまり、割高な火や土、あるいは雷を使うしかない。
《うわああああ! ゲイルウルフだ!》
《こいつ速すぎて魔法当たらないやつじゃん》
《相性最悪すぎw》
《逃げろ! ソロじゃ狩られるぞ!》
コメント欄が悲鳴を上げる。
同接数が急上昇し、2,500人、3,000人と増えていく。
その数字がステータスになり、俺の足に力がみなぎる。
逃げるか?
いや、背中を見せたら狩られる。犬は逃げる獲物を追う習性がある。
「……へっ、上等じゃねえか」
俺は腹を括り、カメラに向かって強がってみせた。
「レアなワンちゃんの登場だ! 毛皮が高く売れそうだなオイ!」
震える手を隠して、俺は左手を突き出す。
先制攻撃。やるなら最大火力だ。
「燃え尽きろ! 《ファイア・ボール》!!」
500円の赤字覚悟で放った火球。
だが。
ヒュン。
ゲイル・ウルフは動揺すら見せなかった。
風のような一歩で、火球を紙一重で回避。
そのまま残像を残して、俺の懐へと肉薄する。
「は……!?」
速すぎる。
同接3,000人の動体視力でも、青い稲妻のような軌跡しか見えない。
目の前には、喉笛を食い千切ろうと開かれた巨大な顎。
「《シールド》ッ!!」
ガガガガガッ!!
展開した障壁に、鋭利な牙が突き刺さる。
耳障りな破壊音。
そして、俺の脳内に響く絶望的な通知音。
(一撃で……100円分の強度が削られた!?)
重い一撃ではない。
牙による連撃だ。ガリガリと削られるたびに、100円、200円と維持費が嵩んでいく。
『カナタ、距離を取って! 張り付かれたら魔法が撃てない!』
「わかってる! でも離れてくれねえんだよ!」
バックステップしても、風を纏った狼は瞬時に距離を詰めてくる。
攻撃魔法を詠唱する隙がない。
シールドを維持するだけで精一杯だ。
(まずい……このままじゃ、削り殺される!)
HP(体力)が尽きるのが先か。
MP(カネ)が尽きるのが先か。
どちらにせよ、待っているのは「死」だ。
俺は冷や汗を流しながら、視聴者に見えない角度で唇を噛んだ。
慢心した罰が、これかよ。
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