第13話 『遅咲きでも、いいのよ』
その日から、私は必死でラジオ体操に通うようになった。
必死、という言葉がいちばん近い。
「行かなきゃ」
朝、目が覚めると、まずそう思う。
膝は相変わらずぎしぎし言うし、肩は寝返りのたびに文句を言う。
それでも、布団の中でうだうだしていると、
胸の奥がざわついてくる。
――行かないと、戻ってしまう。
あの、暗い場所に。
公園では、少し年上の人たちが、
本当に必死な顔で体操をしている。
「いち、に、さん、し……」
掛け声は元気だけど、
腕は途中で止まり、足は半拍遅れる。
それでも、終わると誰も帰らない。
そのまま太極拳を始める人。
公園の外周を、早足で歩き出す人。
「ああ……」
私は、思わず声に出してしまった。
「みんな、健康寿命に必死なんだ」
隣にいた女性が、ふっと笑う。
「必死じゃなきゃ、あっという間だからね」
その人は、真っ赤なスニーカーを履いていた。
上下は黒でまとめているのに、足元だけが派手。
「おしゃれですね」
「でしょう? 気分は大事よ」
そう言って、ウインクみたいに片目をつぶる。
三日目だったか。
四日目だったか。
もう、はっきりしない。
気づいたら、いつも同じ場所に立っている
小さなおばあちゃんと、言葉を交わすようになっていた。
背は低くて、背中は少し丸い。
でも、笑うと――
「……くしゃっ」
音が聞こえそうなほど、いい笑顔。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日も来たのね」
「はい。逃げると、体が怒るので」
「ははは」
その笑い声が、また柔らかい。
「私もね、糖尿病なの」
ある日、彼女はさらっと言った。
「え……」
「昔ね、甘いもの大好きで。
夜中にこっそり饅頭食べたりして」
「……怒られますよ、それ」
「もう怒る人もいないしね」
そう言って、肩をすくめる。
名前を聞いたら、
「嵯峨邦子」と名乗った。
「邦子さん」
「なあに?」
「毎日、お元気ですね」
「元気じゃないわよ」
邦子さんは、立ち止まって言った。
「元気じゃないから、来てるの」
その一言が、胸にすとんと落ちた。
邦子さんは、公園のすぐそばの建物に住んでいる。
朝になると、そこから歩いてくる。
「便利なのよ。
誰かが生きてるかどうか、ちゃんと見てくれるし」
「……安心ですね」
「安心はね、自由とセットなの」
私は、その言い方が好きだった。
私たちは、まるで
赤毛のアンとダイアナみたいに、よくしゃべった。
歩きながら。
体操のあとに。
信号待ちのほんの一分でも。
歌も歌った。
「それ、なんの歌ですか?」
「昔の童謡。
音程? そんなの気にしないの」
音程は、確かに自由だった。
「ねえ」
ある日、私が聞いた。
「怖くないですか」
「なにが?」
「病気とか……この先とか」
邦子さんは、少しだけ考えてから、言った。
「しょうがないのよ」
声は、軽い。
「そういう生き方、しちゃったんだから」
責めない。
嘆かない。
でも、投げやりでもない。
そのバランスが、私にはまぶしかった。
決して美人じゃない。
お金持ちでもない。
服だって、正直、地味だ。
それでも――
「邦子さん、今日もいい笑顔ですね」
「そう? じゃあ今日も合格」
そんな会話が、私を一日、支えてくれる。
帰り道、植木鉢の水仙を見る。
ストックのピンクが、相変わらず誇らしげだ。
「……私、ちゃんと咲けるかな」
そう呟くと、
どこからか、邦子さんの声が聞こえた気がした。
「遅咲きでも、いいのよ」
私は、思わず笑った。
今も、好きだ。
あの人が。
あの、くしゃっとした笑顔が。
それだけで、
今日も歩ける気がしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます