第12話 『己の時を知っている』
玄関前の植木鉢に目をやったときだった。
――あれ?
ほったらかしにしていた水仙が、いつのまにかひょこひょこ背を伸ばして、黄色い小さな花をつけている。
「……うそでしょ」
しゃがみこんで、顔を近づける。
薄い花弁の奥から、まだ冷たい空気の匂いがした。
「植物ってすごいなあ。
己の時を、ちゃんと知ってる」
誰に言うでもなく、声がこぼれた。
その横で、ストックが誇らしげに咲いている。
冬の間、何度も霜に当たり、雪をかぶっても、びくともしなかった花。
ベビーピンク。
ペールピンク。
シェルピンク。
パステルピンク。
桜色。
「……同じピンクでも、こんなに違うんだ」
指先でそっと花びらに触れる。
少しざらっとして、でも温かい。
「雪にも強いし、ほんと、あんたは偉いねえ」
しゃがんだまま、植木鉢の枯れた葉を摘んでいると、足音がした。
顔を上げると、少し年上の人たちが、三々五々、同じ方向へ歩いていく。
「あら」
その中の一人が、立ち止まった。
「いつも、きれいですね。ここ」
「え?」
「このお花。通るたびに、癒されてます」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……ありがとうございます」
声が、少し裏返る。
「お散歩ですか?」
私がそう聞くと、その人は笑った。
「ラジオ体操に行くんですよ」
「えらいですね」
「はは。医者に言われましてね」
横にいた男性が、肩をすくめた。
「糖尿病も、これで良くなってきてるから」
「……えっ」
耳が、その言葉を逃さなかった。
「糖尿病?」
「ええ。最初は面倒でしたけどね。
今じゃ、行かないと気持ち悪いくらい」
胸が、どくん、と鳴った。
「……あの」
気づいたら、私は立ち上がっていた。
「私も……つれていってください」
自分の声なのに、遠くで聞いているみたいだった。
「え?」
男性が目を丸くする。
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
足が、勝手に動く。
ひょこひょこ、初対面の男の人の後ろについて歩いている。
「……ありえない」
小さく呟く。
「……信じられない」
頭の中で、過去の自分が叫ぶ。
――知らない人と話をしてはいけません。
――知らない人についていってはいけません。
何百回、何千回、子どもたちに言ってきた言葉だ。
「なにやってるの、私」
でも、足は止まらなかった。
それほど、
**「糖尿病」**という診断名は、私にとって脅威だった。
公園に着くと、すでに何人も集まっていた。
ラジオの音。
朝の空気。
土の匂い。
「初めて?」
「はい……」
「無理しないでね」
「手、上がらなかったら、途中で休んでいいから」
知らない人たちが、当たり前みたいに声をかけてくる。
ラジオ体操第一。
腕を上げる。
肩が、きし、と鳴る。
「……痛っ」
でも、不思議と、嫌じゃなかった。
「痛いねえ」
隣の女性が笑う。
「でもね、動かすと、ちょっとずつ楽になるよ」
「ほんとですか」
「ほんとほんと」
呼吸を合わせる。
吸って、吐いて。
終わったころには、背中がじんわり温かくなっていた。
「ありがとうございました」
深く頭を下げると、
「また明日ね」
「待ってるよ」
そんな声が、当たり前みたいに返ってきた。
帰り道、玄関前の水仙が、朝より少しだけ誇らしげに見えた。
「……私も、遅れて芽を出しただけかもしれない」
誰に言うでもなく、そう思った。
体は痛い。
不安は消えない。
でも――
「動いていいんだ」
その事実だけが、
春の光みたいに、胸に残っていた。
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