第11話 『ダムが壊れたあとで、牛乳を温めた』

「なんなのよ、これは」


キーッと音を立てて冷蔵庫を閉めながら、私は吐き捨てるようにつぶやいた。

声は思ったより低くて、台所の壁にぶつかって、情けない反響だけを返してきた。


「わたしの退職って……痛みとの戦いだったってわけ?」


誰に言うでもなく、空中に向かって指を振る。


「それなー」


自分で自分に相づちを打って、すぐに後悔する。

……なにやってんの。

一人ツッコミって、こんなにみじめな音がするんだ。


昨日、ちゃんと会話した相手を思い出してみる。

白衣の医者。

レジ越しのコンビニのお兄さん。


以上。


「はうーー……さみしいー」


声に出すと、少しだけ胸の奥がゆるんだ気がした。

でも代わりに、肩がずきんと痛む。

体は正直すぎる。


牛乳を小鍋に注ぐ。

火にかけると、白い液体がふつふつと呼吸を始める。

甘い匂いが立ちのぼる前に、シナモンをひと振り。


茶色い粉が、牛乳の表面で一瞬だけ島をつくって、すぐに溶けた。


「……効くらしいじゃない」


誰に言い訳するでもなく、私は小さく言う。

医者に、じゃない。

世間に、でもない。


たぶん、自分に。


カップに注いで、両手で包む。

あったかい。

それだけで、ちょっと救われた気がするのが悔しい。


一口すする。


舌の上に、やさしい甘さと、鼻に抜けるスパイスの刺激。

どこかで聞いた話が、頭をよぎる。


――血糖値がどうとか。

――体にいいとか、悪いとか。

――取りすぎはだめとか。


「……はいはい」


私はその全部を、牛乳と一緒に飲み込む。


「わかってますよー。魔法じゃないんでしょ」


誰も否定しない。

誰も肯定もしない。


ただ、私の喉だけが、相変わらず渇いている。


カップを置いた瞬間、指先がちくっと痛んだ。

針で刺されたみたいな、いやな感覚。


「はいはい、あんたもか」


指に向かって話しかける自分が、少しおかしくて、少し悲しい。


膝は重たい。

肩は、じっとしていても燃える。

体のあちこちが、「忘れないで」と言ってくる。


「ねえ……」


私は、誰もいない部屋に向かって声を投げる。


「自由な老後ってさ、もっとこう……」


ソファで昼寝とか。

本を読みながらうとうとするとか。

たまにランチして、たまに笑って。


「……こんな、痛みだらけだっけ?」


答えは返ってこない。

代わりに、湯気がすっと消えていく。


私はカップの底を見つめながら、ぽつりと言った。


「でもさ」


声が震えないように、ゆっくり。


「まだ、終わりじゃないよね」


数値は、ただの数値。

痛みは、今の体の声。


そう思わないと、やっていけない。


「……あーあ」


私は立ち上がり、カップを流しに置いた。


「一人で飲むシナモンミルク、意外と悪くないじゃない」


そう言ってみて、少しだけ笑う。


その笑いは、まだ弱々しいけれど。

確かに、私のものだった。


夜は、まだ長い。

そして、明日も来る。


渇きも、痛みも、孤独も抱えたまま――

それでも、私は生きている。


その事実だけが、

今夜の私を、ぎりぎり支えていた。


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