第10話 『ダムが壊れる音を、私は一人で聞いた』
朝、目が覚めた瞬間から、体が自分のものじゃない気がした。
指先が、ちくちく、ちくちくする。まるで裁縫箱に手を突っ込んだみたいだ。
「……痛」
小さく声に出しただけで、喉がからからに鳴った。
水を飲む。コップ一杯。二杯。三杯。
それでも、すぐ砂漠みたいになる。
「なんなの、これ……」
膝を立てようとして、うっと声が漏れる。
「……いたたたた」
肩も、首も、重たい。
髪をとかそうとして、腕が途中で止まる。
「……上がらないじゃん」
鏡の中の私は、昨日と同じ顔をしているのに、どこか壊れ物みたいだった。
――とにかく、病院だ。
頭の中でそう言う自分と、
「やだなあ……病院……」
と布団に戻ろうとする自分が、しばらく綱引きをした。
「……行くしかないか」
ため息は、肺の奥から出た。
*
整形外科の待合室は、消毒液の匂いと、テレビの音と、誰かの咳が混ざっていた。
椅子が硬くて、膝がじんじんする。
「〇〇さーん」
名前を呼ばれて立ち上がると、足が少し遅れた。
「膝、痛いです」
「肩も」
「指先も、なんか……変で」
医師は、私の膝を触って、レントゲンを見て、ふむ、と言った。
「膝、少し変形してますね」
「……え?」
「年齢相応、というか」
「相応って……」
肩を回される。
「痛っ、痛いです」
「あー、これは四十肩、五十肩……まあ、六十肩かな」
「六十肩ってあるんですか」
「今つくりました」
笑えない。
それより、と医師がカルテを見て眉をひそめた。
「血糖、測りました?」
「いえ……」
「じゃあ、測りましょう」
ちくっと指を刺される。
また、針。
数値を見た医師が、画面から目を離さない。
「……」
「……?」
「血糖値、445ですね」
「……よんひゃく……?」
「445」
頭の中で、数字が意味を持たないまま転がる。
「それ、どれくらい……」
「かなり高いです」
「かなり、って……」
「普通の人の、4倍以上」
耳鳴りがした。
「喉、すごく渇きませんか」
「……はい」
「指先、しびれませんか」
「……はい」
「それ、糖尿病の症状です」
糖尿病。
その言葉が、白い部屋に落ちて、音もなく広がった。
「……あの」
「はい」
「私、そんなに甘いもの……」
「関係あります。でも、それだけじゃないです」
医師は淡々としていた。
だから余計に、現実だった。
「一週間後、栄養指導、受けてください」
「……栄養指導」
「生活、見直しましょう」
見直す。
その言葉の向こうに、私の「自由」が静かに遠ざかる音がした。
*
帰り道、スーパーの前を通った。
自動ドアが開いて、揚げ物の匂いが流れてくる。
「……コロッケ」
無意識に呟いて、はっとする。
「……ダメなんだよね」
誰に言うでもなく、袋を持たない手を見つめた。
家に帰ると、冷蔵庫に、あのビールがまだ入っていた。
昨日のプルタブの音が、耳に蘇る。
「……もう、飲めないのかな」
声に出したら、急に胸が詰まった。
老後。
働かなくてもいい時間。
本を読んで、陶芸して、昼からコーヒー飲んで。
「……そんな贅沢、してないのに」
キッチンの椅子に座って、しばらく動けなかった。
体は疲れているのに、眠れない。
喉は渇くし、指は痛いし、肩は燃える。
「……春を待ってさ」
ぽつりと独り言。
「全部の病気が、一斉に目覚めなくていいじゃん……」
ダムが壊れたみたいに、押し込めていたものが溢れてくる。
「自由な老後、ってさ」
「……そんなに大それた夢だった?」
返事はない。
時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てて進む。
それでも、私は冷蔵庫を閉めた。
ビールには手を伸ばさなかった。
「……まだ、終わりじゃないよね」
そう言ってみた。
声は少し震えていたけれど、ちゃんと聞こえた。
音もなく消えていくものがあるなら、
音もなく、始まるものも、きっとある。
そう信じないと、今は立っていられなかった。
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