第10話 『ダムが壊れる音を、私は一人で聞いた』

 朝、目が覚めた瞬間から、体が自分のものじゃない気がした。

 指先が、ちくちく、ちくちくする。まるで裁縫箱に手を突っ込んだみたいだ。


「……痛」


 小さく声に出しただけで、喉がからからに鳴った。

 水を飲む。コップ一杯。二杯。三杯。

 それでも、すぐ砂漠みたいになる。


「なんなの、これ……」


 膝を立てようとして、うっと声が漏れる。


「……いたたたた」


 肩も、首も、重たい。

 髪をとかそうとして、腕が途中で止まる。


「……上がらないじゃん」


 鏡の中の私は、昨日と同じ顔をしているのに、どこか壊れ物みたいだった。


 ――とにかく、病院だ。

 頭の中でそう言う自分と、


「やだなあ……病院……」


 と布団に戻ろうとする自分が、しばらく綱引きをした。


「……行くしかないか」


 ため息は、肺の奥から出た。



 整形外科の待合室は、消毒液の匂いと、テレビの音と、誰かの咳が混ざっていた。

 椅子が硬くて、膝がじんじんする。


「〇〇さーん」


 名前を呼ばれて立ち上がると、足が少し遅れた。


「膝、痛いです」

「肩も」

「指先も、なんか……変で」


 医師は、私の膝を触って、レントゲンを見て、ふむ、と言った。


「膝、少し変形してますね」

「……え?」

「年齢相応、というか」

「相応って……」


 肩を回される。


「痛っ、痛いです」

「あー、これは四十肩、五十肩……まあ、六十肩かな」

「六十肩ってあるんですか」

「今つくりました」


 笑えない。


 それより、と医師がカルテを見て眉をひそめた。


「血糖、測りました?」

「いえ……」

「じゃあ、測りましょう」


 ちくっと指を刺される。

 また、針。


 数値を見た医師が、画面から目を離さない。


「……」

「……?」

「血糖値、445ですね」

「……よんひゃく……?」

「445」


 頭の中で、数字が意味を持たないまま転がる。


「それ、どれくらい……」

「かなり高いです」

「かなり、って……」

「普通の人の、4倍以上」


 耳鳴りがした。


「喉、すごく渇きませんか」

「……はい」

「指先、しびれませんか」

「……はい」

「それ、糖尿病の症状です」


 糖尿病。

 その言葉が、白い部屋に落ちて、音もなく広がった。


「……あの」

「はい」

「私、そんなに甘いもの……」

「関係あります。でも、それだけじゃないです」


 医師は淡々としていた。

 だから余計に、現実だった。


「一週間後、栄養指導、受けてください」

「……栄養指導」

「生活、見直しましょう」


 見直す。

 その言葉の向こうに、私の「自由」が静かに遠ざかる音がした。



 帰り道、スーパーの前を通った。

 自動ドアが開いて、揚げ物の匂いが流れてくる。


「……コロッケ」


 無意識に呟いて、はっとする。


「……ダメなんだよね」


 誰に言うでもなく、袋を持たない手を見つめた。


 家に帰ると、冷蔵庫に、あのビールがまだ入っていた。

 昨日のプルタブの音が、耳に蘇る。


「……もう、飲めないのかな」


 声に出したら、急に胸が詰まった。


 老後。

 働かなくてもいい時間。

 本を読んで、陶芸して、昼からコーヒー飲んで。


「……そんな贅沢、してないのに」


 キッチンの椅子に座って、しばらく動けなかった。


 体は疲れているのに、眠れない。

 喉は渇くし、指は痛いし、肩は燃える。


「……春を待ってさ」


 ぽつりと独り言。


「全部の病気が、一斉に目覚めなくていいじゃん……」


 ダムが壊れたみたいに、押し込めていたものが溢れてくる。


「自由な老後、ってさ」

「……そんなに大それた夢だった?」


 返事はない。

 時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てて進む。


 それでも、私は冷蔵庫を閉めた。

 ビールには手を伸ばさなかった。


「……まだ、終わりじゃないよね」


 そう言ってみた。

 声は少し震えていたけれど、ちゃんと聞こえた。


 音もなく消えていくものがあるなら、

 音もなく、始まるものも、きっとある。


 そう信じないと、今は立っていられなかった。


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